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『恋はデジャ・ヴ(1993年)』感想・考察|──タイムループは「人生を丁寧に生きる」ための装置だった

タイムループ映画は数あれど、その原点として語られる作品が『恋はデジャ・ヴ』だ。

「デジャ・ヴ」という言葉で同じ一日を繰り返す物語を連想させ、「恋は」でラブストーリーであることも伝えている。

考えてみたらこの邦題は、なかなか秀逸だ。

もっとも、本作は恋愛映画である以前に、一人の人間が生まれ変わる物語だ。

ここでは、主人公の変化を分かりやすく追っていきたい。

①閉じた人間・・・・ 「嫌なヤツ」の正体

主人公フィルは人気お天気キャスター。テレビではユーモアがあり親しみやすいが、カメラの外では愛想がなく、人を見下したような態度を取る。

最初は「嫌なヤツ」という印象を受けるが、物語が進むにつれて、その本質は少し違うことが分かってくる。

彼は傲慢というより、自分の殻に閉じこもった人間なのだ。

②快楽への逃避・・・・ どうせ明日は来ない 

毎日同じ朝6時を迎えるという異常な状況に置かれても、フィルは「どうすれば抜け出せるのか」と必死にもがく事はしない。

むしろ、「もう明日は来ない」と受け入れ、自暴自棄になってしまう。

暴飲暴食をし、無謀な運転で警察に追われ、好き放題に振る舞う。

ここで、彼がただ「嫌なヤツ」だったのではなく、長年自分を制御し、自分自身を殻に閉じ込めるように生きてきたということが分かる。

その冷たさは、人を見下していたからではない。自分の殻に閉じこもり、他者へ目を向けられなくなっていた結果だった。

その反動が、一気に噴き出し、無茶苦茶で出鱈目な振舞いをする。

しかし、自分のためだけに生きることには限界があった。

③絶望・・・・ 死ぬことすら許されない

欲望を満たしても虚しさは消えず、やがて彼は死を望むようになる。

車ごと列車へ突っ込み、高所から身を投げても、翌朝6時には何事もなかったように目を覚ます。

何度死んでも終わらない。

本作の残酷さは、「死ねば終われる」という選択肢すら与えてくれないことだ。

成長と貢献・・・・ 人生を丁寧に生き始める

そして、その絶望の先で、フィルは少しずつ変わり始める。

無限にある時間を利用してピアノを習い、氷の彫刻を学び、町の人々の一日を観察しては、小さな災いを取り除く。

善人になろうとしたわけではない。

ただ、終わる事のない一日を積み重ねるうちに、人とのつながりが生まれ、いつしか町中の人から尊敬される存在になっていく。

この変化がとても自然なのだ。

説教臭さはまったくない。

「人のために生きなさい」という映画ではなく、「人生を丁寧に生き始めると、自然と人との関わりも豊かになる」ということを描いている。

タイムループという設定は、そのための装置に過ぎない。

理由も説明されなければ、ループが終わる理屈も語られない。

でもそれでいいのだ。

大切なのは、タイムループの理屈ではなく、フィルという一人の人間がどう変わったかだから。

現実にタイムループは存在しない。

だからこそ、この映画は私たちに問いかける。

もし今日という一日を何度でもやり直せるなら、あなたは何をするだろうか。

そして、本当に大切なのは、やり直せることではなく、やり直せない一日をどう生きるかなのだと気づかされる。

タイムループを題材にした映画は、その後も数多く作られた。

『時をかける少女』は、青春と選択を描いた。

『リバー、流れないでよ』は、2分間ループという設定をコメディとして極限まで活かした群像劇。

『MONDAY』は、記憶の欠落と人生のやり直しをブラックユーモアで描いた。

『ハッピー・デス・デイ』は、ホラーとタイムループを組み合わせ、「毎日殺される」という恐怖さえエンターテインメントとへと昇華した。

どれもタイムループという設定を使いながら、青春、コメディ、サスペンス、ホラーとまったく違う物語を描いている。

特に『ハッピー・デス・デイ』で主人公が何度も殺されては朝に戻る展開は、本作でフィルが何度死んでも朝6時に目覚める姿を思い起こさせる。

それでも「またタイムループか」と感じないのは、タイムループそのものが映画の目的ではなく、それぞれの作品が描きたいテーマのための「装置」だからだ。

『恋はデジャ・ヴ』は、その可能性を最初に示した作品の一つと言える。

30年以上経った今も色褪せないのは、タイムループというアイデアが優れていたからではない。

「人生を丁寧に生きること。」

その普遍的なテーマを、ユーモアと優しさで描き切ったからこそ、本作は今なお多くの人に愛され続けているのだと思う。

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