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第76位:時計じかけのオレンジ

SF・犯罪・バイオレンス

A Clockwork Orange

  • 監督:スタンリー・キューブリック(シャイニング、2001年宇宙の旅)
  • 脚本:スタンリー・キューブリック
  • 原作:アンソニー・バージェス
  • 出演:マルコム・マクドウェル(さすらいの航海、タイム・アフター・タイム)   
  • 1971年/英/136分

 ひとは映画という娯楽に何を求めているのか。2時間前後という制約の中で、痛快、爽快、友情、愛情、感動・・・大衆性だって必要だ。概ねそれらの要素が巧く取り入れられていれば、ひとまず「良い映画」になる可能性は高く、わたしもそのような物を有り難がり涙を流すこともしばしばである。

 ところがこの「時計じかけのオレンジ」は、それらの要素を全く含まない。どころか全てその真逆に振り切った作品となっている。鑑賞後には不快感を抱く方も多い。また与える悪影響のためR指定になったり、イギリスでは長年上映禁止となってしまった。今ではサブスクで手軽に観れるが、露骨なエロ描写や暴力が作品の要所に出てくるので、家族団らんで観れるようなものではないし、もし一人で観ていたとしても、茶の間では家族が通り過ぎることもあるので、やはり観ることを躊躇する。

 確かに1度目の鑑賞ではイヤ~な気持ちになる。それで止めてしまうとこの作品はイヤ~な作品どまりになってしまうかもしれない。しかし2度、3度と回を重ねる内に免疫が出来てきて、この作品の言わんとすること、凄さ、面白さが目から耳からどんどん入ってくる。

 主演のマルコム・マクドウェルは、太々しく無邪気なサイコパス少年を見事に演じている。それはもう本当に見事で、彼でなければならなかったし、彼が演ったことによって「不快」が「痛快」にもなり、コメディにまで昇華したと思う。しかし良い子が見ちゃいけない作品の主演でドギツいインパクトが付き過ぎてしまった彼の俳優人生は、思い描いていたものとは違ってしまったのかもしれない。キュートで品のある顔立ちは、ちょうどマイケル・J・フォックスみたいな人気者にも成り得たろうに。「タイム・アフター・タイム(1979)」ではタイムマシーンを発明して未来に行き、そこで出会ったメアリー・スティーンバージェン(バックトゥザフューチャー3ではドクの彼女)と私生活で結婚したもんだから、なおさら連想してしまうのだろう。

 観る人を選ぶ作品として、作品自体も主演俳優もちょっと残念な感じになってしまったが、やっぱり凄いものは凄いと評価したい。時代が追いついた今、観るべき作品の一本であることは間違いない。絶対的悪とかカリスマとか、思想とかアンチテーゼとか、社会問題とかそういうのを一旦全部ひっくるめてごちゃ混ぜにして、最終的にはそんなのやっぱりどうでもいいやってくらいのコメディにしちゃってるんだと思う。そして音楽劇かというくらいBGMや効果音の使い方が巧みで、場面ごとに恐怖や笑いや同情など、その時の感情を示唆しているのも印象的。

 登場人物一人一人はそれぞれ何かのメタファーとして存在している。政治腐敗、非行、民主主義、社会主義、行き過ぎた人道主義、世論とか・・・。ざっくりとした社会の縮図を風刺的に表現した、実は真面目に考えてもそれはそれで意義のある作品だと思う。

 さて、「時計じかけのオレンジ」の、あらすじと感想です。ネタバレですので、注意!!

悪魔が体をはい回る

 主人公アレックス(マルコム・マクドウェル)は、夜な夜なドラッグミルクをやっては「ナッドサット言葉」という自分たち「ドルーグ」だけの隠語を使って悪事を働くことを生きがいにしている、クソ自己満グループのクソリーダーなわけだが、他と比べてインテリジェンスな雰囲気を持っているからたちが悪い。クラシック音楽、特にベートーべンを愛聴し、時と場合によっては真面目そうで思慮深そうな顔も持ち合わせているが、それが偽の顔だという事は、周りの大人たちはすっかりお見通しなのである。

 アレックスはかなりイカれているが、他の登場人物もほぼ全員がイカれている。ファッションや部屋の内装などもかなりぶっ飛んでいて普通じゃないし、会話も何だか不自然でズレた感じ。そうだここは近未来、キューブリック監督なので、勝手に2001年頃の地球だと思う事にしよう。人類は宇宙開発に力を注ぎ、月ではモノリスが発見され、AIが人を殺し、ボウマン船長が木星付近でスターチャイルドに進化したあの頃、時を同じくしてボウマンたちが不在の地球はと言うと、そこはすっかり無法地帯と化し、若者の暴力と事なかれ主義の大人、そして狂った政治家が世論をコントロールしている世の中なのだった。

 そんな世の中全体が病んでいるこの時代、地球で生きる少年は、自分の体の中にはい回る悪魔を飼っていた。悪魔はドラッグを餌にして、暴力や強姦を繰り返してはその有り余るエネルギーを消費し、ベートーべンシンフォーNo.9でクールダウンする。

 ある日、アレックスたちのドルーグ(グループ)は、とある作家夫婦の家のドアチャイムを鳴らす。その音色がベートーべンの「運命」なのは運命か。事故を起こしてしまったから電話を貸してほしいと丁寧に嘘をついて、部屋に侵入する。そこで繰り広げられる暴挙、かの名曲「Singin' in the Rain」を軽やかに歌って踊りながら暴行強姦行為を行う彼は、まさに悪魔だ。音楽を鑑賞するための想像力も、彼にとっては「破壊」「快楽」「征服」の方向にしか働かないのだった。 

終点に到着

 アレックスの生活は主に、両親と一緒に暮らす市営団地から学校に通い(サボりがちだが)、ドラッグバーに通い、有り余るエネルギーの消費と快楽のために悪行を働く。やってる事はかなりドギツイが、若さが暴走し過ぎる普通の不良少年なのである。そんなアレックスがリーダーでは物足りなさを感じ始めた他のメンバー、ディム、ジョージー、ピートは、しこたま稼げる男仕事をしようと言って、アレックスリーダーを外した新体制を企む。

 当然アレックスはそんな話を受け入れるはずもなく、平静を装うも心の中はグラグラと沸騰し、仲間を「トルチョック」制裁して制圧する。自分のためだけに世の中があって、自分の敵は制裁して従わせれば良い。この時のアレックスが悪としてサイコパスとして最もギラギラ輝いていた。言い方は不適切だが。

ディムたちが男仕事として計画していた豪邸への押し入りをアレックス主導で実行するが、そこで誤って豪邸の女主人をトルチョック撲殺してしまう。逃走するときには仲間から裏切られ、アレックス一人がまんまと逮捕される。 

 なじみの更生保護官からは「とうとう終点に到着したな」とさじを投げられ、「スタージャ」刑務所送りになるアレックス坊やなのだった。

選ぶことのできぬ者は人間とは言えない

 かくして調子乗りの犯罪者アレックスは、仲間からの裏切りもあり、過失致死罪、懲役14年の刑で刑務所へ。そこではドイツの軍人みたいな看守長が厳しく統率していて、655321号という6桁の数字の名前を授かる。「イエッサー!!ノーサー!!」と小気味良く従う様は慣れたもんだ。

模範囚して過ごしていたが、聖書の中にも「殺人」と「快楽」を見出し、それを好んで読んでいたから牧師からは気に入られていた。

  退屈な刑務所生活を2年ほど過ごした頃、犯罪者の脳を治療して善人に矯正する「ルドビコ式心理療法」の事を知る。内務大臣が実験的に推奨していて、それを受ければすぐにでも出所出来るという。だがこの治療は、被験者の脳が暴力行為や色欲への衝動を起こした時、強烈な肉体的苦痛を感じるように洗脳するという乱暴なもので、当刑務所の所長をはじめ、看守や牧師はその治療には反対していた。しかし内務大臣が自ら、野心的で積極的かつ外交的、若くて大胆で残忍なアレックスを、理想的な被験者として抜擢してしまった。

 ルドビコ治療研究所に着くとアレックスは、ドイツ人みたいな刑務所の看守長から、緩そうな囚人係の手に引き渡された。厳しい非人道的環境から、自由な民主的環境へと移行された、という意味にも取れるシーンだが、実はどちらが人道的なのか。

 治療の内容を聞くと、「映画を観るだけ」と説明されるが、それは何とも恐ろしい実験だった。

薬を打たれ瞬き封じの器具で瞼を固定され、暴力、流血、強姦などの映像を見る。アレックスにとっては日常的で懐かしい光景だったが、それを連日見させられる内に、吐き気で溺れ死ぬ感じになった。その時の映像の中に、アレックスが愛するベートーべンの第九がBGMに使われたものもあり、それを観たときは「罪悪だ!ルドウィヒを使うなんて、彼には責任がないのに、作曲しただけなのに!」と言って泣き叫んだ。

吐き気という生理現象が犯罪性反射神経を抹殺するという原理で、それは今までの悪事を心から反省し改心するのとは違う。「善は心より欲するもので、選択されて得るもの。選ぶことの出来ないものは人間とは言えない」と、牧師は嘆く。「そこには誠意のかけらもない、非行は防げても、道徳的選択の能力を奪われた生き物に過ぎない。」と。

 原作は読んでいないので分らないが、洗脳に使われるのが「映画」主に「暴力映像」。確かに映像という情報は良くも悪くも観た者に多くの影響を与える。そこにキューブリックのメッセージを感じると同時に、この作品自体が観る者に悪影響を与えるものと認定されてしまったのは、何とも皮肉なもんだ。

苦痛と吐き気が体をはい回る

 厳しい洗脳治療を終え、晴れて自由の身になったアレックスは、5月の朝の様に爽やかな青年に生まれ変わった。暴力や性的欲望への衝動、そして不幸なことに大好きなベートーべンの第九を聴くことによって肉体的苦痛を感じるという身体になった以外は、いたって健康だ。特にベートーベンは死にたい衝動に駆られる。

一方的に暴力を振るわれても、靴の裏を舐めろと言われても、乳丸出しの女が仁王立ちで挑発しても、アレックスは吐き気に襲われ、ただ泣き崩れるだけだった。そのような人間を作り出すことに何の意味があると言うのだろう。アレックスは「完全に治った」と、今までの自分を病気のように言うが、過去の過ちが消えて無くなるわけもないし、善人になったわけではない。体の中をはい回るものが、「悪魔」から「吐き気」に変わっただけなのだから。

 刑務所生活の刑罰から逃れ、自由の身になったアレックスは、家に帰っても居場所がなかった。ジョーという知らない男が自分の代わりに両親と仲良く暮らしていた。

 途方に暮れて家を出ると、以前リンチしたホームレスの老人にボコボコにされた。助けに来た2人の警官は元ドルーグのディムとジョージーで、助けるどころか殺されそうになった。

 命からがら逃げ込んだ家のドアチャイムは特徴的な音色で、昔訪れ悪事を行った作家の家だった。

家主は、怪我を負って助けを求めて来たアレックスを新聞で見て知っていた。「非人道的政権の犠牲者」だと。反権力をうたう家主は、瞬時にアレックスが次の選挙で政府を倒せる武器になると目論んだ。しかしシャワー室から聞こえる「Singin' in the Rain」、まさに彼が以前この家に押し入り妻を残酷に強姦した若者だと気付いてしまった。憎い妻の仇、こいつが死ねば政府を追い込むことも出来る。

かくして睡眠薬で眠らされ拘束された後に、ベートーべンの第九を大音量で聴かされた。死にたい衝動に駆られ、窓から飛び降りて重体。病院送りになった。

 まさに因果応報。自分が行った過去の悪事が、復讐という暴力で自分に帰ってくる。しかし治療された脳は、暴力を受け入れる事しかできないのだった。

そこで初めて反省して、今度こそ本当の善人になれました、という話ではない、全然違う。

 アレックスは政治利用されたのだった。内務大臣は腐敗したこの街の治安を回復させることを公約に、犯罪者治療という方法で革命を起こそうとしていた。新聞にも載り、一躍注目の的となったアレックスが、洗脳され自殺に追い込まれたというニュースは、政府にとっては都合が悪い。アレックスが死んだら喜ぶ反政府側と、生き残ったとしても責任を問われる政府。世論はルドビコ療法を人権の侵害だと結論付けた。

 大臣はアレックス少年を利用する。一命をとりとめたアレックスの脳は再び元に戻された。脳をいじられる夢を見たと言うが、恐らくそれは夢じゃなかったのだろう。二人は利害関係を一致させ、相互理解のもとに世論をコントロールしようと手を組んだ。ベートーべンの第九を聞きながらアレックスは、拍手喝さいで祝福する人権主義の民衆たちの前で、裸女と戯れる妄想にふける。「大丈夫、完璧に治ったね」と目を輝かせるアレックス。無敵のサイコパスが再び誕生したのだった。

 ここで映画は終わる。原作の方は続きがあって、アレックスは暴力に飽きていくらしい。それに対して映画は物凄いインパクトを残して終わる。「治った」アレックスは、更に心強い味方をつけてヴァージョンアップした。何も知らない世論はアレックスの味方をし、世論から支持を得た政治家と手を組み、政治家を隠れ蓑にして悪事を働くのだろう。素晴らしい「ホラーショー」な人生だ。そして現政権は秘密裏にルドヴィコ治療を遂行していくのかもしれないし、治安回復にはつながらなかったとして廃止するのかもしれない。いずれにせよ、その後のアレックスに恐怖を感じると同時に、残忍な性格は治療しても治らない、哀れな被験者に同情もする。

 そしてもう一つ、映画に求める要素、それは「ラストシーン」。印象的なラストは、その条件を満たしている。間違いなく、面白い映画だ。

 prime video で鑑賞

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