ドラマ・コメディ

沈黙-サイレンス-(2016年)

歴史・ヒューマン

  • 監督:マーティン・スコセッシ(ヒューゴの不思議な発明、ウルフ・オブ・ウォールストリート)
  • 脚本:ジェイ・コックス
  •    マーティン・スコセッシ
  • 原作:遠藤周作『沈黙』
  • 出演:アンドリュー・ガーフィールド(アメージング・スパイダーマン、ハクソー・リッジ)
  •    リーアム・ニーソン(フライト・ゲーム、ラン・オールナイト)
  •    アダム・ドライバー(スター・ウォーズ続三部作、パターソン) 
  • 2016年/米/159分

 さて、「沈黙-サイレンス-」の あらすじです。ネタバレ、というか、観たまんまを文字にしていきますので、ご注意ください。

宣教師にとっての地獄。「より強くあらねば・・・」 

 日本の夏を思わせる、虫の声の静かな響きから始まる。ー Silence ー

1633年、熱水泉の噴気立ち込めるのは、長崎県の雲仙。

斬首首が晒され、数人のポルトガル宣教師が後ろ手に縛られる。

まさにこの世の地獄のような光景。

「お前らの信じるゼウスはどうして助けに来んのだ!」

ドSの日本の役人たちが、宣教師らに温泉の熱湯を柄杓で容赦なく掛ける。

磔にされ、泣き叫ぶパードレ(バテレン、つまり司祭、神父)たち。

「主、イエスキリストに栄光あれ!」

今の日本はキリスト教を布教する彼らにとっては闇でしかない。

神を捨てろと迫害されるのは地獄そのものだ。

 それらの一部始終を遠目に見させられているフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)は、宣教師にとってこの地に平安はないと悟る。

そう悟りながらも、「棄教を断り拷問を受けることは、むしろ信仰の強さを示す勇気ある行為として、潜伏する神父たちの希望にすらなる」という。

怯えながら生きる信徒を見捨てはしない。神の愛の下、より強くあらねばならない、と心に誓うのだった。

 こちらは、遠藤周作の小説『沈黙』が原作のアメリカ映画です。

原作は未読ですので、スコセッシ監督が読み取り映像化したものを通して、遠藤周作のメッセージを読み取りたいと思います。

小学校でも習った隠れキリシタンと、彼らを残酷に迫害していった江戸時代の役人たちの攻防。

殉教していった多くの日本人信徒の傍には、もちろんそれを布教した外国人宣教師たちが存在したのです。

このフェレイラ神父が言うように、死をも恐れず、むしろ死によって勇気をもらい、さらに強くなって対抗しようという発想は、やっぱり危険なのかもしれません。

なぜ当時の日本にとってキリスト教が邪教として迫害されなければならなかったのか、子供のころからカトリック教徒で、キリスト教を扱った小説家遠藤周作がどんな思いでこれを書き上げたのか、そして同じくカトリック教徒のスコッセシ監督がこの題材をどう解釈しどう描くのか。

神とは?信仰とは?正解のない心への介入とも言える、大きなテーマの作品なのです。

 

二人のパードレ、ロドリゴとガルぺ

 日本にいる宣教師フェレイラ神父からの手紙が途絶え、消息不明となったという知らせと、彼が棄教し日本人として暮らしているという噂が、ポルトガルの教会へ届く。

彼を師と仰ぐ二人の神父、セバスチャン・ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルぺ(アダム・ドライバー)は、捜しに行かねばと日本に渡ることを志願する。

島原では数千人が斬首されたという。今の日本は危険だ。

命懸けで布教に行ったフェレイラ神父が本当に棄教したのだとすれば、師は呪われているに違いない。

師の魂を救わなければ。

こうして二人は日本へ渡る最後の神父、「二人の軍隊」となった。

 尊敬する師が棄教したという知らせは、若き神父たちにとっては到底受け入れられない悪事と映り、もしそれが本当だとしたら、もはや呪いであるという発想です。

神に対しての敵である悪魔が存在し、自分たちの敵はまさにその悪魔であると、彼らは真面目に考えています。

いかなる宗教にも、その信じるものの敵対としての悪魔が存在しますが、使命を持ってその悪に立ち向かおうという思想は、やっぱり危険な臭いがしてならないのです。

 ここまでの登場人物は、今ではディズニー傘下の人気シリーズに出演しているハリウッドスターたちです。

フォースを布教するジェダイマスターのクワイガン、ダークサイドに堕ちたダースベイダー推しのカイロレン、そして大いなる力には大いなる責任が伴うアメージングスパイダーマンは、唯一恋人を死なせてしまったピーターパーカー、です。

自分たちが信じるキリスト教というフォースを、危険顧みず遥か彼方の小国に持ち込み、その結果棄教というダークサイドに堕ちてしまったマスターフェレイラ。

彼を救う使命のために未知なる土地へと旅に出る若きパダワンと親愛なる隣人は、今度こそ愛するものを救出することが出来るのか!?

まだこの時点では、呑気にこんなことを考えてしまう、普通の映画ファンの楽しみ方だったりします。

 

キチジローとの出会い

 1640年、マカオ。日本へ密航させる中国船と案内役の日本人を調達する。

それが彼らにとってのファーストジャパニーズ、マカオでたった一人の日本人は汚く臭いキチジロー(窪塚洋介)。

海で漂流中にポルトガル人に助けられ、故郷の日本、長崎に帰りたがっている。

英語を使えることから、日本のイエズス会士から英語を習ったのだろう。

「信徒だね?」「ノー!キリシタンは長崎では殺される。信徒じゃない!」

こんなに汚く卑しい男が、クリスチャンな訳がない、日本人とも思いたくない、と蔑視する二人の若いパードレだった。

しかしイエスはこう説くのだ。

「全世界へ行き、全ての創造物に福音を伝えよ。たとえ誰であろうと」と。

そこに大いなる愛を感じ、自分の行動を戒めるのだった。

 キリスト教を学び、イエスの命によりそれを全世界に伝えようとするこの若者たちは、自らを神の使いとしておごり高ぶっているようにも受け取れます。

見るからに卑しく貧相な日本人(演じる窪塚洋介は決して貧相ではありませんが)を前に、露骨に嫌な顔をするというのは主の教えに反する行為です。

それに気づき反省するのは、懺悔しそして許しを請うというキリスト教の根幹でしょう。

人間がいかに愚かであるか、そしてそれを許し寄り添うことがキリスト教の教えということなのでしょう。

トモギ村の切支丹 

 キリスト教迫害が始まってから20年。

多くのキリスト教徒と司祭たちが死んでいった恐怖の地、日本。

密航船に乗り荒波に揉まれ、キチジローの導きで、とある日本の島にたどり着く。

そこで「じいさま」(笈田ヨシ)を筆頭とする十数人の切支丹と出会う。

トモギ村の人々は、日々厳しくなるキリスト教迫害から逃げて耐えて、暗い洞窟の中で密かに祈るばかりだと言う。

洗礼だけは出来るというじいさまがいたが、司祭がいないとミサや告解が出来ないのだ。

そこに現れた二人のパードレは、隠れキリシタンにとっては願ってもない「神の使い」である。

信者たちはその来訪を歓迎し、食事で持て成す(質素でわずかな煮干しのようなもの)。

それを貪り食うパードレたちだったが、食事の前の祈りをきちんと捧げる村人たちを見て慌てて手を合わせる。

 この界隈では奉行の「井上様」を恐れて生活しており、信徒や司祭を密告すると褒美に銀が与えられるという。

 かつてこの地に居たはずのフェレイラ神父も密告されたのだろう。

だがトモギ村のものたちは彼の事を知らなかった。手掛かりは全く無い。

ただ、「井上様」という役人の事と、キリスト教徒が根こそぎ狙われているという事実は確認された。

 そんな絶望の中、モキチ(塚本晋也)は、ロドリゴ神父が首に掛けた古い十字架のペンダントを、憧れの眼差しで見つめる。

その十字架をモキチに譲り渡すと、汚れた手で握りしめ、額の上に崇めたのだった。

モキチは本当に純粋で、敬虔な信者なのである。

 厳しいキリスト教迫害の渦中、隠れキリシタンが強い信仰心で、命懸けで祈りを捧げていたことが分かります。

対してポルトガルからやって来た司祭たちはどうでしょう。

切羽詰まった日本人教徒に比べると信仰心が弱いような気もします。

同じ宗教を信じているはずの両者ですが、この微妙なズレというか距離感というか、宗教感の差のようなものが、どうしても気になります。

そこにこそ、原作者遠藤周作と、監督スコセッシがこの物語で語られるメッセージを少しづつ表現しているような気がしました。

最後まで観ないと分かりませんが。

 ただこの時点で言えることは、純粋に盲目的に「神」を信じる信者と、その者たちを残酷に排除する「井上様」という存在です。

命を懸けてまで信じる「神」に対して、井上様はやっぱり「悪魔」なのでしょうか。

司祭の役目、そして使命 

 パードレたちは、村人たちの計らいで隠れ家に移動する。

床下には、密告者から逃れるための隠れ穴もある。

昼間はそこに隠れて身を潜め、夜は村へ下りて司祭の役目を果たす。

 隠れて祈るのみだった村人たちにとっては、初めてのまともな「宗教活動」。

コンヒサン(告解)やミサを行う。

例え言葉が通じなくても、自らの罪を告白し神からの赦しを受ければ、苦しみからは救われると約束された。

日本の貧しい信者たちは、異国からやって来た大男の唱える呪文を聞き、蝋燭を前に祈り、十字架を崇める。

見たこともないパライソ(パラダイス)を信じ、死を恐れず、死後に憧れさえ抱いている。

この姿に触れ、布教する司祭たちは少しばかりの葛藤を覚えるようになる。

なぜ彼らはこれほど苦しむのか、なぜ神はこのような苦難を彼らに与えるのか。

 フェレイラ神父は相変わらず行方不明である。師を探すためには長崎に行かねばなるまい。

しかしそれは危険すぎる。村人たちも恐れている。

不安や苛立ちは募る一方だった。

 ここでもやはり、日本人信者たちの信仰心が妄信的で、司祭たちの考えるキリスト教とのわずかな違いを感じます。

この日本人は、キリスト教の本来の教えを本当に理解しているのでしょうか。

彼らが信じる「神」とは、司祭たちが考えているゼウスや神の子キリストと同一なのでしょうか。

もしその信じる神が別物ならば、対する悪もまた違うのではないだろうかという事になります。

それがはっきり分からないまま、それぞれの前に立ちはだかる「悪」に向かう事は、正しい事なのでしょうが。

共に殉教と言う道に向かうことは、間違ってはいないのでしょうか。

「殉教」というもの自体が、恐ろしい思想だというのに。

そこには破滅しかないように思います。

 そして忘れてならない二人の使命は、フェレイラ神父を探すことなのです。

それをこの妄信的な信者たちに伝えることもちゃんと出来てない、その事にも苛立ちを感じているようです。

五島と、キチジローの過去  

 気分転換に隠れ家から抜け出し、疲れ果てた心身を日光にさらす。

空に輪を描くとんびなど眺め、自然の恵みと神の存在を確認する。

しかし見知らぬ村人から監視されている事に気づき、小屋へ慌てて逃げ込む。

彼らは、五島から遥々やって来た切支丹だった。

五島では告解もミサも無く、信仰が揺らいでいるという。

ロドリゴたちが来る前のトモギ村と同じだ。

五島の村民も司祭を必要としているのだ。

パードレがポルトガルからやって来たことは、キチジローから聞いたという。

五島はキチジローの故郷。

8年前、キチジローは踏み絵を踏んで自分だけが生き延び、家族全員殺された事をずっと後悔している。

そしてキチジローは今でも信徒だという。

 五島の地にも自分たちが必要なのだ。

トモギの者たちからの反対を押し切り、ガルぺ神父を残し、ロドリゴ神父が一人五島へ向かうことになった。

 フェレイラ神父は相変わらず行方不明でしたが、そんな時新たな地、五島からもパードレを必要としているという者が現れたのです。

更に彼らが語るのはキチジローの過去です。

そこで「踏み絵」という物を使って信仰心を測り、切支丹を虐殺しているという事実を知らされます。

日本は、神を必要としている。私たちが苦しむ民を救わなければ、と布教への炎が再燃したのでした。

 そこでひとつ、そもそも「踏み絵」とは誰が発明したのでしょう。

小学生の社会科で初めて知った時は、日本人の残虐性がよく表れた変態的アイテムだなあと思ったものですが、今調べてみると、オランダ人説、本作で二人のパードレが探しているフェレイラ神父説、そして長崎奉行説と、諸説あるとのことです。

もしフェレイラ神父説が正しいとすれば、二人は絶望の淵に突き落とされることとなるでしょう。

さて、この後登場する、現在のフェレイラ神父とは、いったいどんな人物なのでしょう。

演じるリーアムニーソンは、善も悪も演じられる素晴らしい役者です。

十字架と、踏み絵 

 再び手漕ぎ船で荒波を渡り、第二の地、五島の地に入る。

キチジローをはじめ、多くの村人たちがロドリゴを歓迎した。

山を越え、よその村からも信徒が洗礼や告解を求めて集まって来た。

 その中で、ついにフェレイラ神父を知っているという者が現れた。

フェレイラは、長崎に赤ん坊のための施設や病院などを建てたが、それは迫害が始まる前の事。

今はあそこは危ない。近寄るべき場所ではない、と言う。

 信徒たちは、ロドリゴが身に着ける十字架やロザリオを欲しがった。

信仰より形あるものを崇めるのは危険な傾向だが、責めることは出来ないので、分け与えていた。

自分にはロザリオをもらう資格がないと言って逃げるキチジローは、最も救いが必要だろう。

 キチジローの告解を聞く。

「自分は踏み絵を踏んだ。神を否定した。

家族は誰一人踏まなかった。目の前で全員焼かれた。

でも自分は、たとえ神を棄てようとも、家族を見捨てることは出来ず、死ぬのを見届けた。

いつまでも燃える炎と肉の焼ける匂いが蘇るが、パードレ達に会った時、その炎が薄らいだ。

再び神に迎え入れられると信じられた。」

これを聞いたロドリゴは、調子のいい奴だと一瞬思ったかもしれない。

しかし、「お赦しください。」と泣き崩れるキチジローを前に、まずはこの男の信仰の再生が必要であると誓い、それには自分の力が必要だと改めて思うのだった。

 十字架やロザリオを崇めることは、偶像崇拝としてキリスト教では禁じられていたようです。

それは、主が唯一の神であり、他に神があってはならない、という考え方が基になっています。

そして、神とは不可視なもので、偶像として可視化すべきではないのだそうです。

現在ではカトリック教は偶像崇拝に対して肯定的になったようですが、プロテスタントでは今でも否定的という事です。

とは言っても、当時キリスト教を全世界に布教するとなれば、いくらかの偶像(十字架など)が不可欠だったのです。

ただ、「主が唯一神である」とする本来の教えが、神ではない偶像そのものを崇める事へと成り替わるのは本質ではありません。「踏み絵」も偶像です。偶像は神ではないので、踏んでも焼いても本当はOKのはずです。

しかしここでも日本人信者たちは偶像を崇め、命を落としてでもその偶像を守りました。

不思議なことに、神父たちも踏むことを拒否しました。

踏んで生き延びたキチジローが、実は一番神を理解していたのかもしれません。

その事にまだ誰も気づいていなかっただけなのかもしれません。

守る気持ち、迷う気持ち 

 再びトモギ村に戻ってみると、じいさまが奉行所の役人によって捕らえられたという。

村人が一列に並べられ、その前に厳かにも馬に乗って現れた役人は、縄を掛けられたじいさまを連れてくる。

厳しい声で若い方の役人が言う。「この中にキリシタンがいるとの訴えがあった。差し出せば褒美をやる。」

猫なで声で年長の役人(イッセー尾形)が言う。「こわばった顔をするでない。3日与えよう。」

3日の内に沙汰がなければ、この者(じいさま)の他にあと3人人質を出すことを約束させられる。

3人の内の1人はモキチが指名され、じいさまは一先ず解放された。

パードレ二人はその一部始終を山の上から眺めているのだった。

 村人とパードレの間で話し合いが始まる。

もちろん揉める。が結局、パードレ達を引き渡すことはせず、人質をあと2人選ぶことになった。

名乗り出たイチゾウと、無理やり選ばれたキチジローが行くことになった。

 日本人信徒の中でも、パードレ達の処遇に対して、揉めます。

「ここにいてください」「出てってほしい」「パードレ達が来なければこんな事にならなかった」

しかしじいさまとモキチが「パードレ達はわしらが守る!」と言い切りました。

 人質4人の内の残り2人を決める時も、皆になすり付けられて、別の島の住民であるキチジローが行くことになりました。

神を信じる者同士でもこのように仲間割れをします。

皆、弱くて卑怯で自分が可愛いのです。

人質に立候補したらそれは自殺行為に匹敵するので、このような言い争いが起こっても人間として当たり前の事ですが、では、神を信じる人間と、そうでない人間とは、どこがどう違うのでしょうか。

そもそもこの地においては、キリスト教を信じることが災いになっています。

「パードレ達が来なければこんな事にはならなかった」と言った男の言葉は、非常に身勝手に聞こえましたが、実はこの言葉は、無慈悲にして当時の真実だったのです。

 「もし踏み絵を踏めと言われたら、どうしたらいいのですか?」と言う人質モキチ。

「踏め。」と言うロドリゴ。「踏むな。」と言うガルぺ。

 モキチがロドリゴに十字架を託す。自分がじいさまの為に作ったという小さな十字架だ。

それを見て「あなたの信仰は私に強さを与えてくれる。私もあなたに同じだけのものを与えられたら良かったのに」と哀れむ言葉を掛ける。

「わしは神様を愛しています。それは信仰と同じですよね?」と言うモキチ。

泣きながら抱き合う二人だった。

 踏み絵を踏むべきか、踏まぬべきか、二人のパードレの間ですら揉めています。

そんなの、日本人の弱き信徒に決められるはずないです。

何が正しいのか、どうすればいいのか、誰も分からないでいます。神に祈っても分かりません。

人質に取られたモキチに対して、半ば絶望を感じている弱いパードレ。

神を愛しているからと信仰心が揺るぐことのない強いモキチ。

しかしどちらも険しい道を歩むしかなかったのです。

 「神」の存在は私には分かりませんが、キリスト教を禁止するという国の方針は、なぜここまで過激になってしまったのでしょうか。

神の沈黙

 人質に決まった4人は長崎まで連行される。それを見守るしかない村人たち。

ロドリゴは神に向かって疑問を投げかける。

「神はなぜ彼らをこれほどまでに苦しませるのですか?」

戸惑いながらも、全員踏み絵を踏む。

しかし役人は許さなかった。今度は十字架を出してきて、これに「唾を吐け」と迫る。

キチジローだけがそれに応じ、許され走って逃げてゆく。

出来なかったじいさま、モキチ、イチゾウの3人は、荒波打ち寄せる海岸の岩場に、イエスのように磔にされる。

死にゆくイエスが酢を与えられたように、彼らには酒が与えられた。

ふんどし一丁で痩せた身体で磔にされるその姿も、まるでイエスの様だ。

激しい波にもまれ、息継ぎもままならない中、初めにじいさまが息絶えた。

最後に「パライソ・・・」と残し。

モキチは、「ゼウス様!じいさまをお導きください! プリーズ・・・!!」

波にもまれながら必死に祈る。

祈っても、叫んでも、耐えても、結果は見えている。

村人たちもパードレも分かっているが、ただ祈る事しかできない。

続いてイチゾウも絶命し、1人残ったモキチは、聖歌を唄い4日間耐えた。

 「死は無意味ではないと主は言う。ではこの叫びを聞きましたか?

これほど苦しむ彼らに、神の沈黙はどう説明されるのですか?」

ガルぺは自分を責めた。「我々のために人が死んだ」

ロドリゴは否定する。「ノー。彼らは我々のために死んだのではない」

そんなロドリゴの事をガルぺは、強い、と言う。

しかしロドリゴは、「私の弱さと疑念をお許しください」と、また神に祈るしかないのだった。

 人間の「強さ」「弱さ」が問われます。

じいさまは、皆の長としてパードレを守るため、そして村人のために戦いました。

モキチは、共に耐えた仲間の為に波に打たれながら聖歌を唄い、自分を貫きました。(この、モキチを演じる塚本晋也さんが、凄すぎます。)

イチゾウは、自ら人質を名乗り出て、確実に1人の命を救いました。

キチジローは・・・。彼は常に自分可愛さに裏切りを繰り返しているようにも見えるのですが、そんな彼だって辛いのです。

パードレも、苦しんでいます。強い自分と弱い自分に、振り回されています。

かたや役人たちは、最期まで聖歌を唄うモキチの姿を前に、4日間も彼が死ぬのをただ何もせず待つばかりです。

一つの同情も無いのでしょうか。役人の感情はここでは全く描かれていません。

仕事としてモキチの遺体を6人がかりで運び、仕事として焼き払うだけです。なんて虚しいのでしょう。

誰よりも強いモキチ、無力な村人とパードレ、無慈悲な役人、そして無意味な虐殺としか思えない行為には、どんな意義があるのでしょうか。

それでも主は、無意味な死は無い、と言うのでしょうか。

 

迷うパードレ

 ガルぺは平戸へ、ロドリゴは五島へ。

再び入る五島は、廃墟の様だった。

かつて聖ザビエルが日本にキリスト教を持ち込んだころと比べ、自分は主のために「何をした?何をしている?何をする?」と自問するロドリゴ。

モキチから託された十字架に祈る。祈って迷う。

あなたの沈黙が恐ろしい。私は何に祈っているのか。無に祈っているのか?あなたはいないのか?

フランシスコ・ザビエルが世界中に宣教し、日本にキリスト教を伝えたのが1549年。

その頃ザビエルは、日本人の事を最高の国民、善良で名誉を重んじる、と高く評価していたそうです。

ただ最初の内は、通訳の日本人がキリスト教の神を「大日」と訳したことによって、それが仏教の一派として伝わってしまったのですが、後に「大日」は「ゼウス」と改められたそうです。

そんな輝かしい「キリスト教の世界」を築いた聖ザビエルに思いを馳せると、自分は何のためにここにいるのだろうという気持ちになるロドリゴです。

でもそれは、ロドリゴがただ無力なのではなく、江戸幕府が出した禁教令のせいなのです。

ですが、自分をパードレと言って慕い、祈り、首を垂れる信徒がいない今となっては、神の存在に疑問を抱き始めるのです。

疑惑の先には、絶望、恐怖、迷いしかありません。

辛い体験を重ねた挙句、孤独になった若い神父の心が崩壊しそうで、見ていて辛くなります。

「神」とは、それを信じる者が自分の中に創り上げるものであり、信じない者の中には存在しないのです。

イエスと、ユダ

 ロドリゴ、五島の山道を歩いてキチジローと出くわす。

キチジローも長崎から戻っていたのだ。

キチジローは、モキチや自分の家族と比べ、自分の弱さを痛感している。

だけど、こんな世の中で、弱い者の居場所はどこだ!?

パードレに対し、強く感情をぶつけるのだった。

そして告解する。

「為すべきことを、今すぐ為せ」

最後の晩餐でイエスがユダに言った言葉と同じ言葉だ。

 川の水に映る自分に、イエスの顔を見ると、狂ったように笑いだすロドリゴ。

その時背後から役人が近寄り、ロドリゴを捕らえる。

「パードレ、許してください!こんな私でも神は許しますか!?」

褒美の銀を役人から投げつけられ、許しを乞うキチジローを残し、ロドリゴは連行される。

 「弱い者の居場所はどこですか?」

この問いには答えられないロドリゴです。

「強くなりなさい。」そんな台詞は的外れな気がします。

ロドリゴは自分にイエスを、キチジローにユダを重ねます。

ユダとはイエスの弟子の一人で、イエスを裏切った人間とされています。

故に、「為すべきことを、為せ」という言葉の意味を考えます。

裏切り者に対して向けられる言葉は、怒りの言葉なのか、それとも愛ゆえのものなのか。

イエスだったらきっと後者なのでしょう。

川面にイエスを見たとき、笑わせるなやっぱり自分は裏切られたイエスか、そしてキチジローはユダなのかと、やけくその爆笑だったのではないでしょうか。

そしてやっぱり裏切られ捕らわれの身となったロドリゴは、イエスの様にはなれず、キチジローに対し怒りの感情しか持てないのでした。

仏教と、キリスト教

 縛られて連行された先には、百姓たちが同じ様に縛られていた。

洗礼名モニカ(小松菜奈)、ジュアン(加瀬亮)を含む、5人の切支丹だ。

モニカは、死んだら苦しみの無い、皆が神と一緒に居られるという「パライソ」に行けると思っている。

 以前トモギ村で会った奉行所の役人(イッセー尾形)がやって来る。

「そう面倒ばかりかけんでくれぇ、頼むぞー」と、この暑さの中出向く事を煩わしそうに言う。

「決してお前たちが憎いわけではない。こちらの考えに少し歩み寄ってくれれば良い」と百姓たちに対しては譲歩の姿勢を見せる。

そしてロドリゴ神父に対しては、「お前次第で彼らを自由の身に出来るんだぞ」と、棄教するよう諭す。

司祭を殺せば村人の信仰心は、より強くなる。

だから、殺すのではなく、棄教させるのだという。

 牢に放り込まれると、通辞役(浅野忠信)が話しかけてくる。

彼も一時キリスト教信徒で、言葉は神父に教わったようだ。

そこではキリスト教と仏教についての宗教観を口論する。

 その上で、棄教を勧める。それを「転ぶ」という。

棄教しないと、囚人が穴に吊るされ、皆死ぬ。

今までにはフェレイラ神父をはじめ、多くの神父も吊るされたと言う。

「フェレイラ?」

そのフェレイラも、今では長崎で大変尊敬されており、日本人の名と日本人の妻を持っているという。

 ロドリゴとの会話を切り上げた後、通辞役は独り言を言う。

「傲慢な奴だ。他の神父たちと同じだ。という事は、奴もいずれ転ぶという事だ」

 通辞役との会話で、互いの宗教論を交わしました。

 「仏とは人が到達できる存在で、人が煩悩を捨て去り悟りを得て達するものだ。」

 「神は創造主で、その掟に従えば、皆平和に暮らせる。」

つまり、人間は仏になれる。

対して、人間が幸せになるために従うのが神。

こんな論議を交わしても、お互いは全く引きません。

日本の役人に言わせれば、神父たちは皆傲慢なのです。

パードレに対し、我々には我々の宗教がある、日本には仏教が根付いている、というのです。

ただこの仏教というのは、それまで異なる宗派が台頭していて、宗派間対立もあったそうですが、徳川幕府の権力によって統括されるようになったのです。

この、仏教一本化という方針も、実は日本を侵略しようとしていると考えられたキリスト教を排除するために幕府が仏教を利用したものと言われています。

つまり、相まみえない宗教論は、どちらの教義がどうかなど関係なく、どちらが幕府の政策に沿うか沿わないか、だけの話。

神とは、信仰とは、という精神論とは全く関係ない、政治、政策でしかなかったのです。

尋問 

 馬で町内を引かれ、物珍しそうに集まる町民からは、切支丹が!と石を投げつけられるロドリゴ。

町民の中にまたもキチジローの姿を見かける。

 着いたところは奉行所、囚人たちが捕らえられている。

そこでは囚人たちの告解を聞いたり、しばし穏やかな日々を送りつつも、近づく死を意識する。

だがそんな時も、イエスが私の心を鎮めてくれる、とロドリゴの信仰は固いのだった。

 お白州では、5人の役人を前に尋問が行われる。

役人はまずロドリゴの長旅を労い、そして言う。

「あなた方の教えはイスパニアやポルトガルでは正しいが、今の日本では無益である。危険な教えだという結果になった。」

それに反論するロドリゴ「我々は真理をもたらした。真理とはどの国どの時代でも真理だ。」

役人「キリスト教はこの地では枯れる。」

お互い譲らない。無駄な議論だ。「私を奉行の井上様の所へ連れて行ってください。」

5人の役人の真ん中に座るイッセー尾形が言う。「私が筑後守、井上だ。」

キリスト教を疑わないロドリゴは、またしても日本に宣教師は不要なのだと説得されます。

キリスト教自体が悪いものではないが、今の日本にとっては有害だ、というのです。

キリスト教 = 真理 = 普遍 と信じているので、日本人の考えには納得がいきません。

この頑強な考えこそ、傲慢で妄信的であると、役人たちは考えます。

そして、度々棄教を促してきた老役人が、ここでのトップ、井上様でした。

キチジローの告解 (何度目だ!?)

 「パードレ!」と叫び、キチジローが乱入してくる。

金の為に裏切ったのではなく、脅されたんだと弁解し、俺は切支丹だ、捕まえろ、と言ってわざと捕まり、牢へぶち込まれる。

そこでロドリゴに再び告解したいのだと言う。

 まず、自分が今の時代に産まれた事を恨んでいると言う。

迫害前だったら、善き切支丹で死ぬことが出来た、不公平だ、悔しい、と言う。

パードレを裏切ったこと、こんな弱い自分である事、こんな事になってしまって、あなたにした事を、お許しください。

そして、強くなる努力をします、助けてください、と救いを求める。

そんなキチジローに対しロドリゴは、「なぜ主はこんな惨めなものでも愛せるのか、この男は、悪と呼ぶほどの価値もない。」

そんな感情を抱く自分は主に値しないのではないかと、不安を抱くようになる。

キチジローは、この国のこの時代の切支丹だけが迫害されなければならない事を悔しがり、不公平だと言いました。

それは、いつの時代であっても自分は切支丹であったはずだという事でしょう。

彼は何度も神を裏切り、パードレも裏切ってしまいましたが、根っからのキリシタンである事は間違いないでしょう。

告解では繰り返し、「I am sorry」と言います。

これは、「お許しください」であると同時に、「悔しいです」という意味でもあります。

彼は自分を弱いと言いますが、弱い自分で悔しい、というのは、根っからの弱い人間ではないように私は感じました。

ロドリゴはそんなキチジローに対し祈りを捧げながらも、こんな男を愛することは私には出来ない、と思ってしまいます。

弱いキチジローを前に、自分の司祭としての資質に疑問を持つ、弱いパードレなのでした。

処刑

 次にお白州に座らされるのは5人の農民、先程のモニカたちだ。踏み絵の儀式が始まる。

「形ばかりで良い。心から踏まなくても良い。信じる気持ちは変わらないだろう。軽くで良い。それだけで即刻自由の身になれる。」そう淡々と語る役人。

まず、チョウキチ、と呼ばれるジュアン(加瀬亮)、次に、ハル、と呼ばれるモニカ(小松菜奈)、そして他3人、5人とも踏まなかった。

あきれるようにその場から外に出て行く役人たち。

ジュアン以外の4人が再び牢に入れられる。しばし安堵の空気がその場に流れる。

一瞬の間をおいて、後ろから近づく役人が、おもむろにジュアンの首をはねる。

絶叫するモニカら4人。転がる首。ロドリゴもその目を疑うように絶句する。

首の無い死体は引きずられ、穴に放られる。「これが切支丹の行く道だ。」

 次に連れて来られたキチジロー。「こいつは慣れてる。踏め。」

慣れた仕草でチョコンと足を置き、そそくさと走り去るキチジロー。

「この行為がいかに容易いか分かっただろう。あやつは自分のすべきことをした、それだけの事だ。」

 「形ばかりで良い、信仰を捨てなくてよい」として絵踏みをさせる事にいったい何の意味があるのでしょうか。

心の中では何を信じても良いし、信じなくても良い。ただ役人つまり国の決定事項に反抗しない事、踏めと言われれば素直に踏む事が求められていたのでしょう。

見せしめとしてジュアンが殺されます。

このシーンがあまりに唐突で、息をするのを忘れてしまいそうになります。

これぞスコッセシというシーンです。

牢の中からこの光景を見ているロドリゴの視線からは、木の柵の間から見える白砂の上を、引きずられる首の無い胴体と、その首を結ぶ赤い血の筋です。

黒と白と赤のコントラストが引き立つこのシーンに、日本の歴史時代劇をぐっとクールなフィルムノワールにした瞬間を見ました。

先のモキチは戦ってモキチとして死んでいきましたが、加瀬亮はスコセッシによって殺された感じです。

特にジュアンとしての演技はなかった加瀬亮ですが、奉行所の役人に殺されたのではなく、監督スコセッシに殺された、その事を誇りに思っていいと思います。

 そして皮肉にも、イエスがユダに言った「為すべきこと」を「為した」形になったキチジローは、役人にとっては良い手本として、ジュアンは悪い手本として、明暗を分ける事になってしまいました。

筑後守井上政重 

井上筑後守の屋敷に招かれたロドリゴ。

そこで井上様から、あるたとえ話を聞かされる。

「ある大名の4人の側室は、互いに妬み合い、争いが絶えなかった。そこで大名は4人を城から追い出し、結果平和が訪れた。」

この場合、大名が日本、4人の側室とはスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスの事だという。

各々が利を求めたら大名家が破滅してしまう。

これが、日本が切支丹を禁じる理由だ、と。

ロドリゴも例えで返す。「正妻を1人選んでは?」

正妻とはイエズス会の事だという。

井上「日本の女を妻にするのが最上ではないか?」

さらに「醜女の深情けは鬱陶しいし、石女(子供を産めない女)は妻になれない。」と言う。

パードレ「井上様はキリスト教を知らない。」

これを聞いた井上様は、深いため息をつき、「よく考えろ」と言い、その場から去るのだった。

 井上様の例え話は、とてもよく分かると思いました。

今日本は諸外国によって狙われ、侵略されようとしている、それを国の政策として阻止せねばならないのだ、という事です。

外国はあくまでも側室であって、正妻ではありません。

ロドリゴは結婚に国籍は関係ないく、必要なのは愛である、と言いましたが、それに井上は醜女と石女を例え否定します。

醜女は「布教」、石女は「キリスト教」の事でしょう。

布教は今の日本にとっては愛ではなく鬱陶しいお節介、キリスト教は子宝に恵まれない、つまりこの地では繁栄しない宗教だ、という事です。

 ロドリゴが「井上様はキリスト教を知らない」と言った時、井上様は深く息を吐きながら、ロドリゴに落胆します。

その時あぐらで座っている井上様の座高がどんどんと縮んでいく演技が、分かっていないのはお前の方だと物語っていました。

ここに内心を多く語られていない井上様が、ただの残虐非道な大名ではないなという深さを感じました。

どこかの権威ある国際映画祭の助演男優賞にも匹敵する素晴らしい演技だったと思います。

確かにこの井上政重という人物は、幕府ににおいて宗門改役に任命され、主にキリシタンの監督を行っていましたが、元キリシタンだったそうです。

通辞役も含め、他の役人たちも英語(ポルトガル語)を話せる日本人は、少なくともキリスト教に精通していた時期があったと考えられます。

迫害前の長崎では、かなりポピュラーな宗教に成りつつあり、だからこそ幕府はそこに危機感を抱くようになったのです。

1638年島原の乱を機に、幕府はますます禁教を強化していくことになりました。

同志の死  

 モニカたちが海へ連れて行かれ、それに同行させられるロドリゴ。

そこには手首を縄で縛られ連行されるガルぺもいた。

久々に見るガルぺだ。

向こうはロドリゴに気付いていない。

井上様の手配でここに連れて来られたというガルぺは、今まさに棄教を迫られている。

お前が棄教しなければ百姓たちを殺す、と。

しかしガルぺは自分を殺せ!と訴えるばかり。

す巻きにされたモニカたちは、あれよあれよと舟から海に落とされる。

ガルぺ!棄教しろ!! ロドリゴの叫びも届かず、ガルぺは海へ潜りモニカを救おうとする。

そしてあっという間に、ガルぺをはじめ全員がおぼれ死んでしまった。

泣き叫ぶロドリゴに通辞役(浅野忠信)は大声で叱責する。

「なんて無惨な最期だ!お前らの身勝手な夢が彼らに苦しみを押し付けた。お前には何の意思もない!!」

泣き崩れるしかないロドリゴだった。

 名誉ある殉職でパライソに行けると言っていたモニカは、棄教しないガルぺ神父のために殺されました。

その最期は本当に喜びのまま迎えられたのでしょうか。

だとしたら、愚かなのか、それとも幸せなのか、それは本人にしか分かりません。

でも間違いなく言えるのは、それを目の当たりにしたロドリゴは絶望したのです。

一緒に日本へ渡った友人、唯一の同志の死、そしてこれまで自分が布教を通して関わった人々の死。

そして自分だけが生き残っている事、主はなぜ私たちをここまで苦しめるのだと、恨み節すら出てきます。

日本人からは、死を覚悟で死んでいった百姓たちやガルぺの方がまだ潔い、司祭に値しないなどと罵られる始末です。

 言わせてもらえば、信仰を守るために死を選ぶ者と、その姿を目の前で見せられ苦しむ者、どちらも不健全で不幸で、どちらが潔いかなんて微塵も思いませんが、このように命と信仰を天秤に掛けざるを得なかったところまで人々を追い詰めたというのは、幕府の禁教がいかに徹底したものだったかが分かります。

 筑後守井上様との面会の頃から待遇も良く、親切に扱われてきていただけに、わずかな希望も奪われてしまったロドリゴは、只々絶望します。

フェレイラとの再会 

 神は、ロドリゴの前で相変わらず沈黙を決め込んでいる。

滑稽だ、馬鹿げてる。

牢屋の中で泣き笑いするしかない、ロドリゴ。

今度は、寺に連れて行かれる。パードレを嫌う、坊主のいる寺だ。

そこで遂にフェレイラ神父に接見する事が叶う。

先方(フェレイラ)からの希望だ。

待ちわびた再会に感無量のロドリゴに対して、フェレイラは何か気まずそうにかつての弟子の顔を直視出来ないでいる。

「何か言ってください。」「何を言えばいいんだ。」

こんな言葉から始まる会話。

1年程前、井上様から穴吊り(縛られて、首に小さく穴を開けられ、逆さ吊りにされる。血が一滴ずつ滴り落ちていくという拷問)をされ、転んだ(棄教した)と言う。

今は日本の為に井上様を手伝って、天文学や医学について書き記しているという。

過去のフェレイラ神父を、そして筑後守井上の事を知るロドリゴは、「人の魂を曲げるなんて拷問より酷い。」と言う。

そのフェレイラが今度はロドリゴに棄教を勧めるのだ。

この国で15年布教した上で、フェレイラは悟ったのだった。

「この国に我々の宗教は根付かない。この国は苗を植えても育たない、沼だ。」

日本人は我々の神など信じていない。彼らは神の事を「大日」と呼ぶ。

太陽の事だ。毎日昇る太陽だ。

自然の内に神を見出す日本人に、キリスト教の神の概念を持つことは不可能だ、と。

しかしこれまでに多くの殉教者を見てきたロドリゴは、「彼らはゼウスを崇めゼウスの為に死んでいった」と信じ疑わない。

フェレイラ「彼らは神の為に死んだのではない。お前の為に死んだのだ。」

そう言われたロドリゴは、情けない事だ、とフェレイラを軽蔑するのだった。

今では、沢野忠庵と名乗り、日本人の妻と子がいるという元フェレイラ神父は、坊主と共にその場から去って行った。

 同志も亡くし、神は沈黙するばかりで、いよいよ神の存在に疑問を抱き始めています。

孤独に押しつぶされそうなロドリゴは、寺でやっとフェレイラに会うことが出来ました。

しかしその再会は、棄教を勧めるためにフェレイラがロドリゴを呼んだ事によって実現したのです。

そこには完全に転んだとみられる元フェレイラ、沢野忠庵がいました。

最初は気まずそうにしていましたが、落ち着き悟ったかのように、日本でのキリスト教の話を始めます。

彼の孤独で険しい布教活動は、ロドリゴの創造に及ぶものではありません。

穴吊りという拷問を受け、挙句踏み絵を踏み、棄教したとして今に至ります。

ここで、本作においての「踏み絵」の発明者はフェレイラ説を採用していないことが分かり、少しホッとします。

フェレイラは日本を「沼」と言いました。

ロドリゴの見て来た信徒たちは、キリシタンの様でいてさにあらん、真のキリスト教の神の概念を持たない独自の切支丹である、という事でしょう。

とは言え、決して切支丹を軽視しているという事ではなく、この言葉をロドリゴに贈りました。

「山河の形が変われども、人間の本性は変わらない」

宗教の形が変わっても、信じる気持ちに変わりはない、という意味でしょうか。

「それ(信じる気持ち)が神を見つけるという事だ」

ただ残念なことに、この時のロドリゴにその心は伝わりませんでした。

ロドリゴにとっては、神は「いる」か「無」かのどちらかでしかないのです。

神の声 

 奉行所へ連れて行かれる。

井上様は、今日ロドリゴが棄教すると予言している。

 夜になり牢に入れられたまま、死を覚悟し祈っていると、外からは番人のいびきと、またもキチジローによる告解を求める叫びが聞こえ、気が狂いそうになる。

いびきのように聞こえるうめき声は、5人の信徒が穴吊りにされ苦しんでいる悲鳴だった。

フェレイラが来て、自分も以前、今のお前と同じだったと言う。

彼らの為に祈るしかない、祈るがいい、ただ祈りは何の役にも立たない、目を開いて祈れ、と。

そこには何とも惨たらしい光景が。

夜の闇の中、かがり火によって照らされるのは、麻袋で巻かれた5人が逆さ吊りにされ、頭部を穴に入れられ蓋をされ泣きわめいている姿だ。

「神は沈黙するが、お前は彼らの為に何ができる?キリストがここに居たら棄教するだろう。」

ロドリゴの前に踏み絵が置かれる。

「今まで誰もしなかった最も辛い愛の行為をするのだ。」

すると踏み絵に描かれたキリストが話しかける声が、ロドリゴには聞こえた。

「踏みなさい。お前の痛みは知っている。私は人々の痛みを分かつためにこの世に生まれ十字架を背負ったのだ。お前の命は私と共にある。踏みなさい。」と。

そしてとうとうロドリゴは、踏んだ。

踏んだ後はその踏み絵に顔をうずめ、泣き崩れる。

5人の信徒とロドリゴの命は、この瞬間に救われたのだった。

 遂にロドリゴは棄教の行為に至りました。

棄教を勧めるフェレイラの言葉は、「目を開けて祈れ、キリストならここで棄教する、最も辛い愛の行為をするのだ」と、実は棄教していないような、心の中にはまだ愛に満ちた神の存在があるような、そういう者からの言葉に聞こえました。

「穴吊り」と言う拷問の事は話には聞いていたロドリゴですが、5人もの信徒が吊られて悲鳴を上げている地獄のような光景を目の当たりにすると、それは神に祈ってどうなるものではないと、確信したでしょう。

これが人間の所業だろうかと思ったでしょう。

人間が人間によって苦しめられている、これを今救えるのは神などではなく自分しかいないのだ、と思い知らされます。

目の前に置かれた踏み絵を見てロドリゴは、キリストの声を聴きます。

沈黙していた神が、「自分は人々の痛みを分かつためにこの世に生まれた」と言っています。

しかし踏み絵に彫られたキリストがしゃべるはずもありません。

まさにこれはロドリゴの心の声です。心の中の神の声です。

棄教したこの瞬間に初めて、ロドリゴは神の事を理解したのかもしれません。

ただしこの「神」とは、ロドリゴにとっての、ロドリゴだけの神です。

 棄教したロドリゴは、今や魂が抜けたような、または付き物が落ちたような顔をして、自分を「転びー!」と指さす子供たちを眺めている。

 フェレイラと共に、人々の家やオランダからの荷物を調べ、隠されたキリスト教関連の品物を探し出す職に就いた。

フェレイラが死んだ後も、この職を一人で全うした。

 井上様から、「岡田三右衛門」という死んだ男の名と、その男の女房と子供をもらった。

今だに五島などには切支丹が多くいるが、宣教師たちが持ち込んだ宗教とはもはや別物になっているという。

日本という沼に負けた元ロドリゴは、「岡田」として日本に迎え入れられるのだった。

 岡田は死ぬまで江戸で過ごし、くり返し棄教の誓い「転び証文」を書かされ、度々踏み絵に応じた。

もう何の躊躇もなく踏めるようになっていた。

 キチジローとも会っていて、「一緒にいてくれてありがとう」などと、日本語で言えるようにもなった。

するとキチジローがまた、パードレ告解を聞いてくれと言う。

「やめてくれ私はもう、違う。出来ない。」

だが「あなたや家族や主を裏切ったことを今も苦しんでいる」というキチジローのために、そして神と会話をするように祈るのだった。

「私はあなたの沈黙と闘い、沈黙の中であなたの声を聞きました。今日この日まで」

 1667年、キチジローは持っていた聖画が見つかり、連れて行かれてしまった。

奉行の取り調べはますます厳しくなり、最期の司祭である元ロドリゴは、二度と神を認めることなく、背教者としての最期を迎えたのだった。

 ロドリゴの遺体は、仏教式にならって火葬された。その手の中には、小さな十字架がひっそりと握られていた。

 ここからは、オランダ人が記した日記という形で語られています。

日本の謎として、そこで棄教した司祭たちの奇妙な物語として書かれています。

つまり棄教した後のロドリゴの主観は語られていません。

棄教した後は井上様に従い、切支丹屋敷でその人生を終えました。

日本の名と妻と子を与えられ、「基督教」の品物を排除する職に就き、転び証文を繰り返し書き、何度も絵踏みをしました。

フェレイラの方が棄教して長く、井上様の下で模範的に背教者として振舞っていましたが、「心を裁けるのは主だけだ」という言葉を口にします。

決して認めませんが、心の中にはまだキリストの神がいたのです。

ロドリゴも同じでした。キチジローの前で一度だけ司祭として振舞っています。

彼の信仰心は無くなるどころか、踏み絵を踏んだ時初めて、沈黙する神の事を本当に理解することが出来たのです。

転び証文も踏み絵も、もう怖くありません。

最期に、本当の意味での平安を勝ち取ることが出来たのでしょう。

日本の妻も切支丹で、きっと強い絆で結ばれていたのでしょう。

言葉を交わす場面は一度もないですが、十字架を握らせたのが妻でした。

それはモキチから託された十字架でした。

最初にたどり着いたトモギ村の信徒たちの事を、死んでいった多くの同志たちの事を、一時も忘れたことは無かったんだろうと思います。

まとめ 

 カトリック教徒の遠藤周作が考える神と信仰についての物語を、スコセッシ監督がライフワークのように長年構想して撮り上げた重たいテーマの作品でした。全くの無宗教で何の思想も持たない私のようなただの映画ファンが、柄にもなく真面目に考えてしまいました。それは決して正しい解釈には至らなかったとしても、こうして一つのテーマについて考えることは無駄にはならなかったと信じたいです。

 原作が発表された当時、カトリック教会から強い反発があったという問題作ですが、遠藤周作はカトリック教徒でありながら、客観的に神と言う存在を考察し、日本におけるキリスト教迫害という史実をも受け入れようとした物凄いパワフルな原作だと思います。そこで弱きものに寄り添う「同伴者イエス」という新しい解釈の神像を発表しました。更に仏教についても理解を深めていき、宗教と風土の研究にまで至っています。このように人類学ともとれる学説を、物語という形で大衆向けに発表した原作を、更にハリウッドスターを起用しエンターテインメントに変換し、末広がりに伝道していくことが出来るのは、やっぱり一流の創造者たちにしか出来ない仕事だなと思いました。

 ラストシーンは原作と本作とは大きく違うそうで、その点で賛否両論あるとの事です。となると、原作を読んで比較しない事には賛否も出せません。スコセッシ監督は、より大衆的に分かりやすく、または自分の好みにエンターテインメント性を持たせたのだと思います。原作も読むべきですね。

 真面目な作品なので、考察もこのように長くなってしまった事を反省しつつ、このような稚拙な文章を読んでくださった人が一人でもいたら、幸いです。

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