ドラマ・コメディ

『それでも夜は明ける(2013年)』――夜は明ける。でも、夜に見たものは消えない

『それでも夜は明ける』を観終わったあと、最初に頭に浮かんだのは、「奴隷制度は、こんなにも残酷だったのか」ということだった。

けれど、時間が経ってから考えてみると、この映画は単純に「奴隷制度の残酷さを告発する映画」ではなかったように思う。

もっと怖いのは、人間が自由を奪われ、名前を奪われ、尊厳を奪われていく中で、少しずつ「自分が誰なのか」まで分からなくなっていくこと。

そして、その中で最後まで残ったものが何だったのか。

私は、この映画を観ていて、ソロモンと「プラット」の間に引かれた一本の線が、少しずつ薄くなっていくのを見ているような気持ちになった。

ソロモンは、最初から「奴隷」だったわけではない

主人公ソロモン・ノーサップは、もともと奴隷ではない。

北部で自由黒人として暮らし、妻と子供がいて、音楽家としても才能を持っていた。

自分の人生を自分で選び、自分の名前で生きていた人間だ。

そんなソロモンが、ある日突然誘拐される。

そして、奴隷として売られる。

そこで彼に与えられた名前が「プラット」だった。

この「名前を奪われる」という出来事が、この映画ではとても大きな意味を持っているように感じた。

ソロモンにとって、自分の名前は単なる呼び名ではない。

「私はソロモン・ノーサップだ」

それは、自分が何者なのかという証明でもある。

だから最初のソロモンには、はっきりとした境界線がある。

自分はソロモンだ。

自分は奴隷ではない。

ここにいるのは間違いだ。

必ず元の生活に戻る。

その線を、彼は必死に守ろうとする。

「ソロモン」と「プラット」の境界線

ところが、その線は少しずつ壊されていく。

名前を呼ばれなくなる。

自由を奪われる。

鞭で打たれる。

首を吊られる。

逃げようとしても、逃げることができない。

そして何より、自分と同じように奴隷として生きる人たちが、目の前で虐待され、傷つき、死んでいく。

それが一度きりの出来事ではない。

毎日の生活になっていく。

最初のソロモンには、「これは自分の人生ではない」という意識がある。

けれど、12年間という時間の中で、その意識だけでは生きていけなくなっていく。

「自分はソロモンなのか、プラットなのか」

そんな狭間で揺れながら、生きるためには、この世界を受け入れざるを得なくなっていく。

ここが、この映画を観ていて一番苦しかったところの一つだった。

人は、ある日突然別人になるわけではない。

少しずつ、少しずつ、自分では望んでいない場所へ押し込まれていく。

そして、そこで生き延びるために、受け入れなければならないものが増えていく。

ソロモンが「プラット」になっていくというより、

ソロモンとプラットの境界線が、少しずつ壊されていく。

私は、この映画をそんなふうに観た。

初めて奴隷たちと一緒に唄う

そのことを象徴しているように感じたのが、仲間の死を弔う唄の場面だった。

農作業の途中で、仲間の一人が死ぬ。

奴隷が死ぬことは、もう珍しいことではない。

それでも、彼らは死者を弔うために唄う。

けれど、プラットはそれまで、その唄を歌わなかった。

自分は彼らとは違う。

自分は奴隷ではない。

その線を守っていたのだと思う。

ところが、そのとき初めて、ソロモンは皆と一緒に唄う。

「奴隷になった」と宣言したわけではない。

自分から「プラット」になったわけでもない。

ただ、目の前で死んだ仲間を悲しむ一人の人間として、彼らと同じ場所に立った。

そして、思わず口をついて出たその唄は、とても力強かった。

この場面を観たとき、ソロモンとプラットの境界線が、また一つ薄くなったように感じた。

それは、彼が完全に奴隷として自分を受け入れたということではない。

むしろ、どれだけ線を引いていても、同じ苦しみの中で生きている人間同士として、彼らとの間にあるものを無視できなくなったのだと思う。

「希望を捨てなかった男」の物語なのか

『それでも夜は明ける』というタイトルを聞くと、どうしても「どんなに辛くても、希望を捨てなければいつか夜は明ける」という物語を想像してしまう。

実際、最初のソロモンには、強い希望がある。

必ず自由になる。

妻と子供のもとへ帰る。

自分は奴隷ではない。

けれど、12年間を過ごすうちに、その希望はどんどん薄くなっていく。

私はこの映画を、「最後まで希望を捨てなかった男の物語」とは思えなかった。

むしろ途中から、ソロモンの中にある希望の輝きは、ほとんど見えなくなっていく。

絶望している。

心が折れていく。

それでも生きなければならない。

だから、彼を支えていたのは、「いつか必ず自由になれる」という強い希望だけではなかったのではないかと思う。

もっと小さくて、もっと確かなもの。

それが「記憶」だったのではないだろうか。

ソロモンを支えた「記憶」

妻と子供たち。

幸せだった頃の暮らし。

音楽家として生きていた自分。

自由な人間として暮らしていた日々。

そして、

自分は確かに、そこにいた。

という記憶。

すべてを奪われても、記憶だけは奪うことができない。

名前を「プラット」に変えられても、ソロモンとして生きていた時間まで消すことはできない。

だから私は、ソロモンを最後まで支えたのは、「希望」というよりも、この記憶だったのではないかと思った。

記憶があったからこそ、彼は自分が本来誰なのかを完全には失わずに済んだ。

そして、その記憶が、彼を元の場所へ戻してくれた。

でも、記憶は彼を救うだけではない

ところが、この映画には、もう一つの「記憶」がある。

それが、この映画を一番辛いものにしている。

幸せだった頃の記憶だけではない。

12年間の奴隷生活も、また彼自身の記憶として残ってしまう。

鞭で打たれたこと。

首を吊られたこと。

逃げられなかったこと。

仲間と一緒に苦しんだこと。

目の前で仲間が死んでいったこと。

パッツィーのこと。

エップスの狂気。

そして、「プラット」と呼ばれ続けた12年間。

それらも全部、彼が生きた時間だ。

自由になれば、奴隷ではなくなる。

家族のもとへ帰ることもできる。

けれど、12年間が消えるわけではない。

ここが、この映画のとても厳しいところだと思う。

記憶は彼を救った。
でも、記憶は彼を苦しめ続けるものにもなった。

幸せだった記憶が、ソロモンをソロモンとしてつなぎ止めた。

同時に、12年間の苦しい記憶もまた、彼の中から消えることはない。

だから、「自由になった」という事実だけでは、すべてが元通りになったとは言えない。

「元の場所」に戻ることと、「元の自分」に戻ること

映画の最後、ソロモンは家族のもとへ帰ってくる。

長い年月を経て、ようやく元の場所へ戻る。

でも、12年前のソロモンと、帰ってきたソロモンは同じ人間ではない。

もちろん、名前はソロモン・ノーサップだ。

家族のもとへ帰ることもできた。

けれど、その中には12年間の記憶が刻まれている。

奴隷として生きた時間は、なかったことにはできない。

だから私は、

「元の場所に戻る」ことと「元の自分に戻る」ことは、同じではない。

と思った。

これは、自由を取り戻した後まで続く苦しみなのだと思う。

映画の中では、奴隷制度から解放されることが大きなゴールとして描かれている。

けれど、人間の人生は、そこで終わらない。

自由になったあとも、人は自分が経験したことを抱えて生きていかなければならない。

ソロモンもそうだったはずだ。

「それでも夜は明ける」

ここまで考えて、タイトルの意味が少し違って見えてきた。

最初は、「どんなに苦しい夜でも、いつか朝が来る」という希望の言葉に思える。

もちろん、それも間違いではないのだろう。

でも、この映画の「それでも」は、もっと重いものなのではないか。

夜は明ける。

けれど、

夜に見たものは消えない。

絶望したことも。

心が折れたことも。

仲間を失ったことも。

自分の名前を奪われたことも。

「プラット」と呼ばれ続けた12年間も。

それらは、朝が来たからといって消えてなくなるわけではない。

それでも朝は来る。

それでも人は、生きていかなければならない。

そして、ソロモンは12年間の記憶を抱えたまま、ソロモンとして家族のもとへ帰ってきた。

希望が輝いているから生き延びたのではない。

絶望しても、心が折れても、

自分が誰だったのかという記憶だけが、ソロモンを繋ぎとめた。

それと同時に、苦しかった12年間の記憶も、彼の中から消えることはない。

ソロモンも、プラットも、どちらも彼自身なのだ。

それでも、夜は明けるのだ。

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