作品データ
作品名:ズートピア( Zootopia )
公開年:2016年
監督:バイロン・ハワード
リッチ・ムーア
上演時間:108分
製作国:アメリカ
ジャンル:CGアニメ・コメディ・アドベンチャー
画像出典:TMDb(The Movie Database)
ウサギのジュディとキツネのニック。
草食動物も肉食動物も一緒に暮らす、理想都市ズートピア。
登場する動物たちは、みんなかわいく個性的で、とても親しみやすい。
水牛の警察署長。食いしん坊のチーターは署の受付係。
ライオン市長。小さくて可愛いヒツジ副市長。
ナマケモノの陸運局員。ネズミのMr.ビッグは、ヴィトー・コルレオーネにそっくりなマフィアのボス(笑)。
こんな世界、何も起こらなくても、覗いてるだけで楽しくなってしまう。
ところがこれが、思っていた以上に重たいドラマだった。
ズートピアでは、草食動物と肉食動物が共存している。
昔は肉食動物が草食動物を襲うこともあったらしい。でも現在では、肉食動物も文明社会の一員として暮らし、草食動物と共存している。
そんな理想的な社会で、突然、肉食動物が凶暴化する事件が起こる。
警察官になったばかりのジュディと詐欺師のニックが、ひょんなことからはバディとなって、この事件を追うことになる。
ズートピアという理想郷には、様々な種の動物が共存している。
とは言っても、「ネズミエリア」とか「ツンドラ区」とか、住む環境は集落のように区別されている。
そしてこの世界にも、当たり前のように「偏見」が存在していた。
キツネはズル賢い。
ウサギにはニンジン農家がお似合い。
それは、露骨な偏見というより、無意識の先入観のようなものだ。
でも捜査を進めるうちに、少しずつ二人の距離が縮まっていく。
二人とも、それぞれの立場で偏見に傷ついてきた。
ニックは、まだ幼い頃に、「キツネは危険」というひどい差別を受け、傷ついたまま大人になった。
ジュディは「ウサギだから警察官には向いていない」と言われながら、それでも警察官になった。
そんなジュディが、肉食動物の凶暴化という事件を追う中で、
「肉食動物の本能が戻ってきたのが原因かも」
という方向に考えてしまう。
ここが、この映画の転機であり、怖いところだった。
ジュディは、差別する悪い人として描かれているわけではない。
差別される側の気持ちも知っているつもりだったし、差別と戦ってきた主人公だ。
それでも、自分が偏見を持つ側に回ってしまう。
しかも、まだ原因が分かっていない段階で、
「肉食動物だからかも」
という方向に考えてしまい、それをあくまで自分の意見としてだが、記者会見で語ってしまったのだ。
真相はどうあれ、その言葉は、友情が芽生え始めていたニックを深く傷つけてしまった。
自分では「差別なんてしていない」と思っていても、知らないうちに自分の中の偏見が顔を出すことがある。
そして、この映画で差別されるのは「強い動物」の方だということも見逃せない。
「弱い者」が「強い者」を恐れる。
それは「恐怖」という感情だ。
怖い → 危険 → 排除
そんなふうに、人の感情は動いていく。
もちろん「怖い」と感じること自体が悪いわけではない。
問題は、その感情だけで相手を決めつけてしまうことだ。
そして、もっと怖いのは、その恐怖をたくさんの人が共有したときだと思う。
それまで共存してきたのに、誰かが「肉食動物は危険」
と言ったら、それが社会全体の常識のようになってしまう。
そして、それを利用する人が現れる。
このあたりまで来ると、『ズートピア』は単なる「差別はいけません」という映画ではなくなる。
人はなぜ恐怖から偏見を持つのか。
そして、その恐怖が社会全体に広がったとき、何が起こるのか。
この映画は、そこまで描いているのだと思った。
「みんながそう言っている」の怖さ
ジュディの記者会見での発言が、ズートピアの空気を一変させた。
「肉食動物の本能が原因かもしれない」
その言葉が広がると、今まで普通に暮らしていた肉食動物たちが、突然「危険な存在」として見られるようになってしまう。
一人の発言が、社会全体の空気を変えてしまう。
これを観て、私は今のSNSのことも考えてしまった。
SNSは、誰でも自由に発言できる素晴らしいツールだ。
自分の考えを、自分の言葉で発信できる。
昔なら、テレビや新聞など、一部の人しか持てなかった発信の力を、今は誰もが持っている。
でも、その自由な発言が集まったとき、ちょっと怖いことも起こる。
誰かが何かを発信する。
すると、
「わかる!」
「その通り!」
「私もそう思う!」
と、同じ方向の意見が一気に集まる。
そこに反対意見を書く人が現れる。
すると、
「は? 何言ってるの?」
「そんなことも分からないの?」
「バカなの?」
そんな反応が返ってくる。
それを見た別の人は、
「反対意見を書くのはやめておこう」
と黙ってしまう。
そうすると、画面の中には同じ意見ばかりが残る。
本当は、黙っている人の中に、
「私はそこまで思わないけどな」
と思っている人がいるかもしれない。
でも、その人たちは声を上げない。
だから、画面だけを見ていると、
「世の中のみんなが、こう思っている」
ように見えてしまう。
これが私は、怖い。
しかもSNSの怖さは、その「社会の空気」が出来上がるまでのスピードだ。
「いつの間にか」なんていう生やさしいものではない。
一夜。
本当に、たった一夜にして出来てしまうことがある。
昨日まで誰もそんな話をしていなかったのに、朝起きたら、もう「世間ではこういう意見が普通」という空気が出来ている。
そして、そのSNSの空気を、次の日にはテレビやネットメディアが取り上げる。
「いまSNSで話題になっている」
「世間ではこんな声が上がっている」
そうやって、また情報が広がっていく。
もちろん、SNSにある意見がすべて間違っているわけではない。
テレビやネットメディアがそれをそのまま取り上げることも、もはや普通のことになっている。
でも、
「声が大きいこと」と「正しいこと」は、同じではない。
「たくさんの人が言っていること」と「社会全体の意見」も、本当は同じではない。
それなのに、同じ方向の声が集まり、反対する人が黙り、その空気をまたメディアが拾う。
そうすると、最初は誰か一人の意見だったものが、ものすごい速さで「社会の空気」になってしまう。
『ズートピア』で描かれていたことが、急に現実の世界とつながって見えてきた。
「強い者」なら傷つけてもいいのか
もうひとつ、この映画を観ていて考えたことがある。
最近は「弱い者を守る」という正義感が、特に「強い側」と見なした相手を必要以上に攻撃する方向へ向かうこともあるように思う。
でも、それは結局、「強い者」と「弱い者」を勝手に分類しているだけではないだろうか。
『ズートピア』では、肉食動物は「強い側」だ。一般社会で考えても、やっぱりそうなるだろう。
草食動物は肉食動物を恐れる。彼らに「恐れる」という感情があるかどうかは分からないが、「弱肉強食」という言葉は確かにある。
しかし、ここは人間に置き換えて考えた時、「強そうだから」という理由で一括りにして恐れてしまったら、それもまた偏見になる、ということ。
弱い者を差別してはいけない。
それはもちろんそう。
でも、
「強いように見える相手なら、傷つけてもいい」
ということに、私は強い違和感を抱く。
差別や偏見の形は様々だ。
しかし、そこにはどうしても、「弱いもの」「強いもの」という無意識な分類が存在していると思う。その結果、どちらかがどちらかを攻撃してしまいかねない。
多様性を認め、ハラスメントを認めない。
それを求める社会のはずが、本質は少しずつズレてきている気がするのは、私だけだろうか。
そして、私はやっぱり映画が好き
『ズートピア』は、かわいい動物たちが活躍する楽しい映画だと思う。
ジュディはかわいいし、ニックも魅力的。
ズートピアの街並みも楽しい。
サスペンスとしても面白い。
でも、観終わってみると、その奥には、
偏見。
差別。
恐怖。
同調圧力。
社会の空気。
そして、その空気を利用することの怖さ。
そんな重たいテーマが詰まっていた。
しかも、それを説教くさく語るのではなく、動物たちの物語として見せてくれる。
ここが映画のすごいところだと思う。
現実の世界では、一人の人間が発した言葉が、SNSを通して一晩で広がり、それが「世間の声」のようになってしまうことがある。
それを見ていると、なんだか疲れてしまうこともある。
だからこそ私は、映画が好きなんだと思う。
映画は、目の前の出来事をただ消費させるのではなく、物語を通して、少し離れたところから人間や社会を見ることができる。
『ズートピア』を観て、私は現実のSNSのことまで考えた。
そして、考えたあとに、
「人間って、こんなところがあるよね」
と、少し立ち止まることができた。
リアルな世界では、一晩で生まれてしまう「社会の空気」。
その一方で、映画は何年も前に作られた物語が、今の自分に新しいことを考えさせてくれる。
だから私は、映画が好きだ。
かわいい動物たちの物語に笑っていたはずなのに、気がつけば自分たちの社会について考えている。
『ズートピア』も、そんな有意義な時間をくれる、素敵な映画だった。
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