ベトナム戦争映画と聞けば、多くの人が思い浮かべるのは『プラトーン(1986年)』だろう。
これは全くの余談だが、『地獄の黙示録』のウィラード大尉を演じたマーティン・シーンの息子チャーリー・シーンが、『プラトーン』の主人公を演じているのは、どうしても因果性を感じてしまう。
『プラトーン』は、一人の若き兵士の視点から戦場を描き、戦争が人間をどう変えてしまうのかをリアルに映し出した。
また、同じくベトナム戦争映画の『ディア・ハンター(1978年)』は、戦争が人間をどう壊したかを描いていた。
『プラトーン』がリアルな戦場の描写をメインに置いたことに対し、『ディア・ハンター』と『地獄の黙示録』は、より象徴的だった。
リアルな戦闘風景よりも、その先にある「人間の内なる闇」を描こうとしている。
この映画が見つめているのは、戦場ではない。
戦争とは何なのか、人間とは何なのかを、神話のような寓話で問いかけている。
川を遡る旅は、人間の心を遡る旅
物語は、ウィラード大尉(マーティン・シーン)が消息を絶った英雄・カーツ大佐(マーロン・ブランド)の暗殺を命じられるところから始まる。
これは極秘の軍事作戦だった。
しかし、川を遡るにつれ、その意味が少しずつ変わっていく。
最初は軍隊としての秩序があり、作戦があり、日常がある。
ところが奥地へ進むほど、その秩序は崩壊し、文明は薄れ、理性は失われていく。
まるで人類の歴史を逆戻りするように、人間の精神の深層へ潜っていくように。
そしてまた、アメリカが泥沼に落ちていくさまにも受け取れる。
理性を失い、迷子のようになっても、ただ前進するしかない一隻の小さな船。
この川は、地理ではなく心理を流れている。
川を上昇するにつれ、心理は逆に、救いようのないほどの深層へと下降していく。
カーツは狂人だったのか
この映画最大の謎は、やはりカーツという男だろう。
陸軍特殊部隊、つまりグリーンベレーのカーツ大佐は、敵軍に対し目覚ましい戦闘を繰り広げ、最終的に自分の王国を作ってしまった。
彼は狂人なのか。
戦闘意欲を持つ精鋭部隊なら、こんな戦争はもっと早く終わっただろうと嘆くカーツ。
今、前線で戦っている若い兵士たちは、まるでツーリストだ。
ビールを飲んでは騒ぎ、良い波が来たらサーフィンに興じる。
指揮官が誰かも分からず、撃ちまくり、怪我をさせては手当てする。
欺まんだ。
カーツは、倫理よりも現実を見てしまった。
原始的な殺人本能を持ち、理性的判断を持たない者の強さを目の当たりにした。
本物の地獄を見て、精神は苦悩で引き裂かれた。
恐怖と、それに怯える心を「友」としなければならない。
だから、家族を捨て、自分をも捨てた。
カーツは「戦争」という狂気に飲み込まれたのではない。
自らの身体に、狂気を取り込んだのだ。
しかし、この狂った状況下で普通でいられる人間の方こそ、実は狂人なのではないだろうか、とも思う。
ウィラードは、なぜ帰ることができたのか
ウィラードもまた、川を遡る中でカーツの心の闇に近づいていく。
最初は命令として始まった旅が、やがて彼自身の精神を試す旅へと変わる。
カーツを殺す頃には、彼はもうカーツを理解できる場所まで来ている。
ウィラードはカーツと対面したら、対決するつもりでいた。
さっさと任務を遂行し、この悪夢から抜け出すつもりだった。
しかしウィラードは、カーツを理解し始めていた。
それは「同調」ではない。
カーツ自身が、もう終わりにしたいと思っている。
苦痛を取り除き、軍人として死ぬことを望んでいる。
その事を、理解するなら殺ってくれ。
カーツの最期と、儀式で牛が犠牲になる場面が交互に映し出される。
まるで一人の軍人の死ではなく、一つの神話が幕を閉じる儀式のようだった。
カーツはウィラードに、「お前には私を殺す権利はある。しかし、裁く権利はない」と語っていた。
この言葉が、深く心に残る。
ウィラードは、最後までカーツという人間を完全に理解したわけではない。
おそらく、それは誰にもできない。
しかし、彼を蝕み続けてきた苦悩だけは理解した。
ウィラードは、カーツに向かって斧を振りかぶった。
二人の運命は、その瞬間に生と死で分かたれた。
しかしそれは善悪の決着ではなく、理解できない者同士だからこそ辿り着けた、最後の理解だった。
だから、あの一撃は狂人への処刑ではなく、
苦しみ続けた一人の軍人を、軍人のまま静かに終わらせるためのものだった。
私には、ウィラードはカーツを裁いたのではなく、救ったように見えた。
民族たちは、ウィラードを新たな支配者として迎えるような眼差しを向ける。
もし彼がそこへ留まれば、第二のカーツになっていたのかもしれない。
ウィラードの眼は、それまでは違う光を放っていた。
まるでカーツが見てきたものが、そのままそっくり宿っているかのようだ。
しかし、彼は船へ戻る。
文明へ帰ることを選ぶ。
ウィラードはカーツより少しだけ強かったのだ。
いや、「強かった」というよりも、
人間でいることを選ぶことができた。
そのわずかな差が、二人の運命を分けたのだと思う。
このラストは「善が悪に勝った」というものではない。
ただ、「終わらせるべきものを終わらせた」だけに過ぎない。
その代償は大きかった。
『プラトーン』との違い
『プラトーン』は、戦争が普通の若者をどう壊していくかを描いている。
主人公クリスは、政治によって戦場へ送り込まれ、生き延びるために少しずつ変わっていく。
ラストで語られる、
「われわれは、われわれ自身と戦った。」
という言葉は、その体験を未来へ残そうという証言であり、使命のように締めた。
一方、『地獄の黙示録』は違う。
この映画は、戦争そのものを描くのではない。
戦争という極限状態を通して、
「人間とは何か」
という問いを投げかけている。
だからリアルな戦闘描写以上に、悪夢のような映像や象徴的な出来事が積み重ねられていく。
戦争映画でありながら、神話のようでもあり、哲学書のようでもある。
理解できないからこそ、忘れられない
映画を観終えても、カーツを完全に理解することはない。
おそらく、それでいいのだろう。
ウィラードも、カーツを理解したから殺したのではない。
理解できないまま、その苦しみだけは受け止めた。
この作品は答えを用意していない。
ただ、ひとつの問いだけを残していく。
人間は、どこまでなら人間でいられるのか。
日常を生きる私たちは、こんな問いを自分に投げかけることはまずない。
だから、この映画は難しい。
しかし、その難しさこそが『地獄の黙示録』という作品の価値なのだと思う。
カーツを理解できないまま、この映画は終わりを迎える。
しかし、その問いだけは終わらない。
人間の心の最も深い場所を描くために、ベトナム戦争という舞台が必要だった。
そして、鑑賞した者一人ひとりの心の中で、今もなお川は流れ続けている。