三谷幸喜作品を観るといつも思うことがある。
三谷幸喜は、物語を書く脚本家ではない。
人物を作る脚本家なのだ。
例えば『みんなのいえ』なら、
「昔気質の大工の棟梁」
「モダンデザインを信奉する若きデザイナー」
「職人に憧れを抱く、気弱で人の良い男」
まず、こんな人物たちが生まれる。
そして、その人物たちを同じ場所に置く。
すると、あとは彼らが勝手にしゃべり始める。
棟梁なら、こう言う。
デザイナーなら、こう反論する。
気弱な男なら、その場を取り繕おうとする。
どのセリフも「いかにもこの人が言いそう」なものばかり。
決して奇をてらった言葉ではない。
むしろベタだ。
しかし、そのベタさが心地いい。
鑑賞者は「やっぱりそう言うよね」と思いながら笑ってしまう。
それは、人物がしっかり生きているからだ。
『みんなのいえ』の画面には、多くの登場人物が同時に映って、
ガチャガチャしている場面も少なくない。
それでも、誰一人として背景にはならない。
画面の隅にいる人物ですら、その人らしい反応をしている。
物語を進めるために配置されたのではなく、それぞれが自分の人生を生きている人間として存在している。
だから群像劇なのに混乱しない。
自然と、「この人ならそうする」と納得してしまうのだ。
物語の中心となるのは、棟梁と若きデザイナーの対立である。
伝統か、革新か。
経験か、理論か。
最初は分かりやすく、価値観の違う二人がぶつかっているように見える。
ところが物語が進むにつれて、その印象は変わっていく。
アンティーク家具を一緒に修復する場面などを通して見えてくるのは、二人とも仕事に誇りを持つ職人だということだ。
つまり後半では、
「価値観が違うから譲らない」のではなく、「似た者同士だから譲らない」
という関係へと変化していくのである。
この描き方が実に巧い。
しかし、「お互いを認めて仲良くなる」という単純な関係ではない。
認め合っても、やっぱり言い合う。
その言い合いにはどこか敬意が生まれ、職人同士だけが分かる空気が流れ始めるのだ。
そして、その二人の間を行き来するのが、田中直樹演じる気弱な男である。
職人に憧れを抱きながらも、自分はそこまで強くなれない。
だから棟梁にも共感し、デザイナーにも理解を示す。
二人の緩衝材となり、鑑賞者の目線にも一番近い存在だ。
派手ではないが、この役がいるから物語全体が柔らかくなった。
そして何より、この映画はキャスティングが見事だ。
田中邦衛の棟梁は、まさにはまり役。
頑固なのに憎めない。
怒鳴っていても愛嬌がある。
あの表情を見ていると、「困った人だなぁ」と笑ってしまう。
頭の固い老人ではなく、自分の仕事を誰よりも愛している職人なのだ。
大工の仕事に誇りを持ち、50年以上走り続けてきた歴史が、その表情にキラキラと表れている。
そして、あんなに軍手が似合う親父は二人といない。
一方の唐沢寿明も素晴らしい。
鼻につくほど自信家なのに、仕事への情熱には一本筋が通っている。
しかし、理想だけでは家は建たない。
現実との折り合いを付けながら、自分の信念だけは手放さない。
そこには、最初に抱いた「理論武装したチャラい若者」というイメージとは別の人物像がいた。
だから棟梁との対立は、どちらが善悪という話ではなく、信念と信念のぶつかり合いになる。棟梁は少し勝手が過ぎたが(笑)。
八木亜希子も、最初は少し意外な配役に感じたが、周囲の登場人物があまりにも濃いだけに、あの「ごく普通の人」という存在感が逆に作品のバランスを整えている。
三谷幸喜は、人物を作る。
そこへ「この役ならこの人しかいない」という役者を配置する。
すると、その人物たちは脚本に動かされるのではなく、自分の意思でしゃべり、自分の意思でぶつかり、自分の意思で少しずつ変わっていく。
『みんなのいえ』は、家づくりの映画だが、いつもの三谷作品と変わらず、人物が生きていること自体が面白い映画だった。
だから、この映画を観終わっても物語が終わった気がしない。
今日もあの人たちはあの場所で、あの人らしく生きているんだろうなと想像を巡らせてしまうのである。