ドラマ・コメディ

ベニスに死す(1971年)

 作曲家グスタフ・アッシェンバッハは心臓が悪く、その静養のため一人リゾート地ベニスのリド島を訪れる。

同じホテルに宿泊し家族でバカンス中の美少年タージオに一目惚れしてしまい苦悩するが、そこで流行り病にかかってしまう。そして、ベニスで死ぬ、というお話。

それだけです。2行で語れるストーリーです。それを131分の尺で、濃密に、美しく、テンポ悪く(?!)魅せてくれました。

 まずこの作品を掘り下げようとすると、タージオを演じるビョルン・アンドレセンの不遇な生い立ちと、その美し過ぎる美貌が招いた悲劇、本作の監督ルキノ・ヴィスコンティからの冷遇など、作品の内容には直接関係ないのにどうしてもネガティブなフィルターが掛かってしまうような情報が飛び込んでくる。

そして既に述べたとおり、ストーリーは2行で語れるもの(原作は未読だが)なのに、しかしながらこの作品は、間違いなく名作の烙印を捺された作品なのである。

 原作者トーマス・マン自身と友人の作曲家グスタフ・マーラーを足したという作家が主人公。その作家の苦悩を描く文芸作品(映画版は作家が作曲家になっているが)。あくまでも主人公は悩める老芸術家であって、特にクローズアップされる美少年は、もはや幻のような存在。そんな文芸作品なのである。

 芸術家グスタフは、死について考えている。幼かった娘と死別した経験から、「死」を身近に感じながらも、人生を砂時計に例え、「砂が無くなった時が死。しかしそれに気付くのは砂が終わる直前であって、最後の頃まで気付かない、気付いた時にはもう終わっている」そんな死生観を序盤で語っている。

 芸術家グスタフは芸術家故に、美について考えている。芸術家は自らの努力によって「美」を創造する。しかし本当の美とは精神的概念であり、芸術家の努力で作られるものとは別物である。本当の美とは自然に発生するもの、即ち天からの授かりものだ。いや違う、天から与えられた狂気、自然が贈った罪深いひらめきだ。そんな談義を友人のアルフレッドとぶつけ合う日々もあった。

芸術家はバランスと力の象徴として他から手本にされなくてはならない存在だ、と考える完璧主義者のグスタフは、その反面、自分の努力では作り得ない、崇高で絶対的な概念としての「美」を常に恐れていたのかもしれない。

 静養の為に訪れたベニスの高級ホテルは、大勢のホテルマンがゲストを迎え、所狭しと美しい貴族たちが賑わいを見せていた。窓からはプライベートビーチも見える。

サロンには着飾った老若男女、取り分けむやみにでっかい飾りつきの帽子を頭に乗せたマダムたちが、概ね無意味な談笑をしている。

 そこで一際際立つ美しい一輪の花のような少年を、発見してしまった。それがタージオ。

タージオの隣に座る母親も、遠目から見ても目立つくらい美しい女性だし、賑わっている貴族たちも煌びやかで皆美しい。それは「作られた美」

その中で、無造作な金髪、華奢な身体つきに何の特徴もない白いセーラー服を着たタージオは、グスタフが常日頃から恐れていた「本当の美」「精神的な美」そのものだったのだ。その時から目が離せなくなってしまう。

 健全で道徳的でありたいグスタフは、以前よりその性格を友人から非難されていた。「そのいじけた道徳感が芸術家の創作の妨げになっている。魂の健康など味気のないものだ。本当の汚れに身をさらすことが芸術家の喜びだ。君の芸術の根底にあるのは、平凡だ。」と。

芸術家ってのは大変だ。非凡であることを強要されつつ、現実世界に生きなければならないのだから。

 道徳と精神のバランスを重んじるグスタフは、畏怖の美を目の前にして怯え、それが少年であるという事に動揺し自責する。

 長引く季節風のため嫌な暑さが続き、身体の具合は悪い。

 ビーチでくつろぐ宿泊客。フルーツやアクセサリーなどを売り歩く行商たち。グスタフもビーチで仕事をしながら、摘み立てイチゴを買って食べる。そこでも目で追う先には美しいタージオ。

 精神的にもイライラが募る一方、身体の具合は更に悪いので、予定より早く帰ることにした。タージオとの別れは悲しいが、これ以上居ても辛くなるだけだと、心の中でタージオに別れを告げる。

 その時駅で、不審に倒れる重病人を目撃する。それがベニスの町に立ち込める暗雲の兆しだった。

荷物の行き違いが発覚し、それが戻るまで帰れなくなり、再び船に揺られて島に戻る時などは、またタージオに会える喜びを隠せない。

 もはや足がおぼつかない程に具合が悪そうなグスタフは、タージオの小悪魔的微笑みを前に、「他人にそんな笑い方は見せるな。アイラブユー」と叫ぶ、心の中で。

ここら辺のグスタフは既に完全にタージオのストーカー。それに加え身体の具合が悪いというグスタフを演じるダーク・ボガードの演技は本当に鬼気迫っており、報われるはずもない恋心を切なく、そして程よく気持ち悪く、絶妙にリアルに演じており、素晴らしいとしか言いようがない。

ヴィスコンティ監督はグスタフに自分を重ね、タージオ演じるビョルンに魅入られ、その美を、今現在の一瞬一瞬に放たれる美を、でもその一瞬は二度とは訪れないという美を、そこに留めておきたいと切望しカメラに収め、留めることが不可能である事も承知の上で、苦しんだのではないだろうか。そしてそこで誰にでもやって来る「老い」という逃げられない無情を敵視しなければならず、ビョルンにもその敵視のようなものが向けられてしまったのではないだろうか。

 疫病の噂が舞い込んでくる。消毒液まで撒いている。身体の具合がすこぶる悪いので心配になるのだが、誰に聞いても「毎年夏になると公衆衛生上の予防処置として政府が注意喚起するんですよ、安心してください」とあしらわれる。

ある時両替所の従業員に尋ねると、切羽詰まった観光客の質問に対し、本当のことを語ってくれた。「あくまで予防処置だと答えるように指導されています。本当の所は、アジアコレラです。住民は怯えながら黙っています。ベニスの住人は観光客で生活しているからです。」

 美しい観光地のベニスが、荒廃した疫病の町と化す。それは才能に恵まれ若かった頃の自分、美しい妻と可愛い幼子と暮らし幸福だった頃の自分が、才能も平凡に落ち着き仮面をはがされて老い朽ちてゆく自分と重なってしまう。自分が疫病に感染している事を確信するしかなかった。

 「純粋」に対しての「不純」。「若さ」に対しての「老い」。

タージオと自分が対局であることを思い知らされ、化粧で老いを隠すも死期を予感し、絶望の中で高笑いする。

  罪深く純粋なタージオが砂浜で戯れる。

  立ちあがって君を守りたいが、それが出来ない。

  いまはただここに横たわり、醜く老いて朽ちるのみ。

  地平線を指さす美しい君の姿を、脳裏に焼き付けよう。

  ごめんね先に逝くよ、何一つ君に与えられないまま・・・

美しく切ないこの文芸作品は、間違いなく、名作でした。

 U-NEXT で、鑑賞

 

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