ドラマ・ミステリー・サスペンス
The Killing of a Sacred Deer
- 監督:ヨルゴス・ランティモス
- 脚本:ヨルゴス・ランティモス
- エフティミス・フィリップ
- 出演:コリン・ファレル/ニコール・キッドマン/バリー・コーガン
- 2017年/アイルランド・英・米/121分
さて、「聖なる鹿殺し」のあらすじです。ネタバレですので注意!
奇才ヨルゴス・ランティモス監督によるサスペンスです。まずそのとても神秘的かつスリリングな邦題に、観たい欲をそそられました。「聖なる」が「鹿」に掛かるのか「殺し」に掛かるのかによって感じ方が変わってきますが、原題からして「鹿」に掛かっていることが分かります。「鹿を殺す行為」が神聖なのではなく、「神聖な鹿」を殺す、という禁じられた行為に至る登場人物の物語です。
日本では古来より、鹿を「神の使い」として崇める風習があったり、ヨーロッパでも同じく「神の使い」と扱われることもあるようですが、キリスト教の布教により、神とは唯一人であるという教えから、鹿はむしろ悪魔の象徴である、という扱いに転じたという背景もあるそうです。
本作はギリシャ神話、「アウリスのイピゲネイア」という悲劇の物語を基にしているそうです。狩猟の女神を侮辱して怒らせてしまったギリシャ軍の総大将である父親が、女神の怒りを鎮めるために自分の娘イピゲネイアを生贄として差し出すのだが、その時娘が鹿にすり替わっていた、とかいないとか、そんなお話らしいですが、その神話が原作というわけではなく、いかにもランティモス監督らしく、不穏な空気を全面に漂わせ、人間の性、闇をストレートに表現している作品となっています。
ここでの「鹿」は誰を、または何を指しているのでしょうか。
プロローグ~ 私は既婚者だ。愛する家族と幸せに暮らしている。
シューベルトの荘厳な管弦楽の音楽をバックに、むき出しの心臓が、ひたすら鼓動を繰り返すシーンから始まる。主人公スティーブンが心臓外科医だからだ。このグロテスクな光景は、彼が毎日のように目にする日常。見慣れない者にとっては、目を背けたくなるようなその紫色の物体の規則正しい拍動は、彼にとっては腕時計の秒針が時を刻むようなものなのかもしれない。頑丈な防水腕時計と健康な心臓を所有する者がこの世の勝ち組と考えているかのように、同僚と腕時計の話をしながら手術を終えて、院内の真っ白な長い廊下を歩く。これが心臓外科医スティーブンの日常の風景。
顔の下半分を髭で覆った外科医スティーブンは、時々ファストフード店などでマーティン(バリー・コーガン)という少年と落ち合う。二人は別々に来ては別々な物を食べ、会計も別、どんな関係なのかこの時点ではわからない。
川辺で散歩をしながら、何気ない会話をする。さわやかな青空の下、スティーブンはマーティンに腕時計をプレゼントする。
スティーブンは、腕時計のベルトが金属である事にこだわりを持つ。革のベルトより金属の方が頑丈だからだ。同僚の麻酔科医にも同じことを言っていた。自分の好みの色に染め上げられて肌なじみの良い動物の皮革のベルトより、長持ちするという理由で金属のベルトを好む。だから頑丈な腕時計の買い替え時は「飽きた時」。所有物は壊れて失うより、飽きて手放す方が楽という主義なのか。
マーティンはプレゼントの腕時計を素直に喜び受け取ると、「ハグしていい?」と言ってはスティーブンを抱き礼を言う。少年と中年オヤジが青空の下でハグするそこでのBGMは、さわやかな風景には似つかわしくない不穏な音楽。それはまるで真っ暗闇の墓場のシーンで使われるような寒々しい高音弦楽器の音色で、だから二人が今後闇に向かうような間柄であることを想像する。つまりこの二人はいったいどんな関係だ?
このように何気ないシーンにおいても、常にそしてさり気なく不気味な音が流れるから、この作品はずっと「不穏」だ。
家に帰ると、妻アナ(ニコール・キッドマン)と娘キム、その弟ボブと共に食卓を囲む。医者の家庭らしくセレブなファミリーのそこでの会話は、まずはキムの友達クレアのバースデーパーティーのこと。クレアの事は先日モールで会って知っている。心臓外科医志望で優等生だ。自分もパーティーに行きたいとせがむボブに、散髪を促す父スティーブン。ボブは巻き髪の長髪で毛量も多く、それを奇麗だからこのままでいいのよと甘やかす眼科開業医の妻。「みんな奇麗よ」と言って家族への愛を表明するアナを筆頭に、美しさと品の良さを守ることを共通概念として掲げているような家族だ。
妻は黒いドレスが似合い、夫のためだけにレモンケーキを焼くような、妖艶で甲斐甲斐しい女だ。そんな妻を相手に、大好きな全身麻酔ごっこをする夫はかなり気持ち悪い医者だが、このスティーブン、よく見たらコリン・ファレルだった。
コリン・ファレルとニコール・キッドマンはちょうど同じ頃、ソフィア・コッポラ監督の「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ」で共演している。そちらの作品では二人は隠密にして微妙な関係ながら、狂気的なラストを迎えている。やはりどうしてもこの二人のコンビは「不穏」なのだ。ちなみにコリン・ファレルと言えば、かつては男前の代表みたいな時期もあったように思うが、同じくヨルゴス・ランティモス監督「ロブスター」(2015)では小太り口髭のうだつの上がらない中年男を演じ、「The BATMAN」では特殊メイクで誰だか全くわからないという始末。いつの間にか役作りがすさまじい役者の一人となっていたようだ。
聖歌隊に所属する娘キムは14歳だが、彼女の成長をスティーブンは心から喜んでいる。幼い息子ボブと比べるともう立派な女性とも見られる年頃だが、まだまだ少女の部分を残す。二人とも可愛い我が子だが、やはり父親にとって女の子はシンプルに可愛い。特に美少女だから尚更だろう。一方、ボブには少し厳しくなってしまう。これも愛情あってこそなのだが。
一方腕時計をプレゼントしてもらった謎の少年マーティンは、そのお礼を言うためにスティーブンが勤務する病院へやって来る。アポなしの訪問に少しイラつくスティーブンは、同僚の麻酔科医マシューに「娘の友達」と偽ってマーティンの事を紹介する。マーティンもそれを否定しない。隠し事があるのは明らかだ。
再び青空の下で会うスティーブンとマーティンの会話から、マーティンの父親は既に亡くなっており、その後母親とは互いを支え合う良好な関係だということが分かる。それまではちょっと不気味な少年に見えていたマーティンが、普通の子供に思えてくる。学校にはバスケ仲間なんかもいると言う。
視聴者の私が思ったのと同じように、この時スティーブンもマーティンに対し、普通の少年に向ける親心のようなものを衝動的に抱いたのか、「強制はしないが、家族に紹介したいから家に来ないか?」と誘う。あくまで強制はしない。積極的にどうしても来て欲しいというのではない。家族に紹介して、うまくいけば今までの1対1の付き合いが、4対1に分散され、自分の負担が減るとでも思ったのか。つまりスティーブンはマーティンの事を持て余している。少なくとも二人の関係は、あっちじゃなかった。この時も、寒々しいあの不気味な音色が静かに流れていた。
花束を手に、スティーブンの家を訪ねドアを開けるその時まで、その不気味な音色は鳴り続けた。
マーティンはスティーブンの家族にそれぞれプレゼントを用意していた。妻アナには「ユリが好きだと聞いていたけど、新鮮なのが無かったからバラを」と言って。第一印象はパーフェクトだった。
子供部屋で三人になったマーティン、キムそしてボブは共通点は無いが、会話の中でそれぞれ自分がどれだけ大人に近づいているかでマウントを取ろうとしている。キムは自分より少し大人のマーティンに興味を抱き、すっかり恋する乙女の眼差しをマーティン向けるようになる。ボブなどは二人に比べ、完全に子供だ。
泊ってけばいい、という言葉も、母さんが待ってるからと言って断り、好感度を上げてから帰っていくマーティン。
そんな少年をアナは「いい子ね、また招いてあげて」と言い、スティーブンはマーティンの事を自分の元患者の息子で、父親の死因は「車の事故だ」と言う。何か怪しい。
先ほど帰ったばかりのマーティンからの電話に出るスティーブン。「今度はうちに夕食を食べに来て」。「そのうちね」と言ってごまかそうとしても通用しない。「じゃあ明日の夜7時半。母さんも喜ぶ。」と強引だ。「母さんに会うのは2年ぶりだね、あの時以来だ」
2年前の「あの時」、いったい何があったのか。言えるのは、スティーブンはマーティンの願いを断ることが出来ないという事。そしてまた不穏な音楽が鳴り響く。それはスティーブンがマーティンの家に向かい、家に入るまで鳴り響く。
マーティンの目的は現段階では、スティーブンを自分の母親と引き合わせ、あわよくば自分の父親にしてしまいたいという事のようだ。共に母親の手料理を食べ、父親が好きだった映画を観る。母親もまんざらでは無いようだが、積極的にスティーブンに迫る姿は猟奇的だし、自分の母親を既婚者のスティーブンとくっ付けようとする息子は狂気的だった。
「私は既婚者だ。愛する家族と幸せに暮らしている。」そう言ってマーティンの希望を拒むが、明らかに何か弱みを握られているスティーブンは、マーティンからのストーカー行為に悩まされるようになる。
この後、父親の死の真相が徐々に見えてくる。そして少なくともマーティンのスティーブンへの執着は、単に父親代わりを求めるというな感傷的なものではなかった。
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感想
とにかく最初から最後まで、不穏な空気がまとわりついたような作品でした。清潔で開放的な病院も、青空の下で語らう時も、幸せそうな家族との団らんも、見る側に落ち着く余裕を与えてくれない。それはまず第一に、不穏な効果音の存在が大きいでしょう。何でもない日常のシーンの要所要所に、神経を逆なでるような薄気味悪い音色が使われます。目で見ている状況と耳から入ってくるイメージがかけ離れているので、余計に不安を掻き立てられるという心理作用です。
カメラワークも不穏な空気を演出しています。特に印象に残るのは、病院の長いエスカレーターのシーンです。
映画では「階段を昇る」または「下る」というシーンは、その人物の今後の人生や心境を例えるために使われる事が多々あります。例えば「ジョーカー」(2019)で主人公アーサーは、病気の母親が待つ自宅アパートに繋がる大階段を、重い足を引きずりながら昇り、終盤では同じ階段を嬉々として踊りながら下ってゆく、そして悪へと変貌していきました。また、「エクソシスト」(1973)では、精神的にどん底な神父はあらゆる所で階段を昇るシーンがありますし、また悪魔の棲む家に面するいわゆるエクソシストステップという階段は、挑むように下から見上げる者もいれば、転がり落ちて死ぬ者もいました。
ここでのエスカレーターは今後の状況悪化を示唆するような長い長い下りエスカレーターで、かなり上空からそれに乗る長男ボブと妻アナをとらえています。まるで奈落の底へ落ちてゆく者を、神の目が憐み眺めるかのように。
そこからの展開は、美しく聡明で秩序の保たれた幸せな家庭が、各々の保身に執着して不様に壊れていきます。その過程が恐ろしく、不気味でなりません。ここまで救いようのない展開を、こんなのよくある話だよね的に淡々と語るランティモス監督は、やはりかなりの変態だと思います。そして、いつだって彼が描く「人間」は、皆それぞれのエゴをぶつけ合い、制御できない業に囚われているように思います。エゴを通せば人は平等を強いるし、平等でないものを排除しようとする。だから伴侶ともなれば、お互いに共通点を持っていなければ共存する事すらできない。前作「ロブスター」の登場人物は、そんな考え方を皆が当たり前に持っていて、それがとても奇妙な世界観でした。
本作では、少年マーティンだけが「平等性」にこだわっています。二年前に父親を亡くしてから、少なくとも今では、悲しむことよりも誰かがもしくは皆が自分と同じ思いを抱くべきだと考えています。その憎悪というよりは理想論のような強い思考と、スティーブンが抱く深層心理に隠れた罪悪感が共鳴し、一家は集団催眠に掛かってしまったのだと思います。その結果、悪魔の契約書にサインをしてしまった。そんなもの、あるはずもないのに。
怖いもの見たさで、気持ち悪い人たちのちょっとした日常(?)を覗き見たいような時にはぴったりの、かなり風変わりな作品です。不条理、不穏度はMAX、爽快感や達成感などとは全く無縁の作品でした。
U-NEXT で鑑賞