作品データ
- 原題:Raging Bull
- 製作年:1980年
- 監督:マーティン・スコセッシ
- 出演:ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、キャシー・モリアーティ ほか
画像出典:TMDb(The Movie Database)
「ボクシング映画」と聞けば、多くの人は『ロッキー』のような熱いサクセスストーリーを思い浮かべるかもしれない。
しかし『レイジング・ブル』は、その真逆を描いた作品だ。
『ロッキー』が敗者の希望を描いた映画なら、『レイジング・ブル』は勝者の破滅を描いた映画だった。
主人公ジェイク・ラモッタは、世界ミドル級チャンピオンにまで上り詰めた実在のボクサー。
リングでは誰よりも強く、打たれても倒れない不屈の闘志で観客を魅了した。
ところが、リングを降りた彼は驚くほど弱い。
妻を疑い、弟を疑い、誰も信じられず、嫉妬と怒りに支配され、自ら人間関係を壊していく。
この映画は、「世界最強の男」が、自分自身には最後まで勝てなかった物語なのである。
まず語らずにはいられないのが、ロバート・デ・ニーロの演技だ。
デ・ニーロは若き日のラモッタを演じた後、撮影を中断して実際に大幅な増量を行い、中年以降のラモッタまで演じ切った。
俳優が役のために極限まで身体を変えることは今では珍しくないが、その先駆けとも言える存在で、「デ・ニーロ・アプローチ」という言葉まで生まれたのは有名な話だ。
もちろん凄いのは体型だけではない。
勝者の自信も、敗者のみじめさも、暴力も、情けなさも、一人の人間として違和感なく存在している。
だからこそ、ジェイクは嫌な男なのに妙にリアルなのだ。
正直に言えば、ジェイク・ラモッタはかなりどうしようもない人物である。
実在の人物だから美化することもできない。
妻には暴力を振るい、弟には理不尽な嫉妬をぶつけ、愛情を向けられても疑い続ける。
見ていて腹が立つ場面も多い。
しかし、だからこそ映画として強烈な説得力がある。
もし彼が「本当は優しい男でした」という描かれ方をしていたら、この作品は凡庸な伝記映画になっていただろう。
マーティン・スコセッシは、その醜さから決して目を逸らさない。
人間は成功しても、強くても、弱さや醜さから逃げられない。
そんな現実を観客に突きつけてくる。
私が印象に残ったのは、ラモッタ本人よりも、彼の周囲で傷つき続ける人たちだった。
弟ジョーイは、兄を支え続ける忠実な存在だ。
ジョー・ペシは後に『グッドフェローズ』や『カジノ』で狂気を秘めた危険人物を演じるイメージが強くなるが、本作では兄を支える穏やかな弟を演じている。
実はこれが、デ・ニーロとスコセッシ、そしてジョー・ペシという黄金トリオの出発点でもあった。
当時ほぼ俳優業から離れていたペシを、デ・ニーロがスコセッシに紹介したことで、この作品への出演が決まったという。
その後の映画史を考えると、実に感慨深い。
そして何より痛ましいのが妻ビッキーである。
まだ15歳だった彼女は、ジェイクの異常な嫉妬と暴力に振り回されながらも、家庭を守ろうとし続ける。
彼女の表情には、愛情と諦めが少しずつ混じっていく。
ラモッタの人生を描いた映画でありながら、彼によって人生を壊されていく人たちの物語でもあるのだ。
そして、リングを去った後のジェイクはさらに痛々しい。
太りきった身体。
冴えないステージ。
まったく面白くないジョーク。
若い女性にだらしなく鼻の下を伸ばす姿。
あれほど強かった男は、見る影もない。
普通なら、ここで少しは成長した姿を描きたくなる。
しかしスコセッシはそうしない。
最後までジェイクはジェイクのままなのだ。
だから救いは少ない。
それでも、だからこそ忘れられない。
『レイジング・ブル』は、ボクシング映画というより、人間の弱さを描いた映画である。
リングでは誰にも負けなかった男が、自分の嫉妬や怒りには勝てなかった。
そして、その弱さによって、人生で本当に大切なものを一つずつ失っていく。
スコセッシは、デ・ニーロの格好よさだけを撮ろうとはしなかった。
むしろ、人間の醜さ、情けなさ、みっともなさまで徹底的に映し出した。
だからこの映画は、40年以上経った今でも色あせない。
英雄ではなく、一人の欠点だらけの人間を描いたからだ。
人は、他人には勝てても、自分自身には簡単には勝てない。
『レイジング・ブル』は、その残酷な真実を真正面から描いた作品だった。
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