『スター・ウォーズ』が宇宙への夢を描いた映画なら、『エイリアン』は宇宙への恐怖を描いた映画だ。
しかも、その恐怖の描き方が実にリアルだった。
舞台は、銀河を冒険する英雄たちの宇宙船ではない。ノストロモ号は、鉱物を採掘・運搬するために宇宙を往復する貨物船だ。乗組員たちは世界を救うヒーローではなく、ごく普通の労働者。食事をし、仮眠カプセルで眠り、ボーナスの話をしながら地球への帰還を待っている。
この生活感こそが、本作最大のリアリティである。
宇宙船の内部には、何のためにあるのか分からない配管や機械、計器が所狭しと並ぶ。観客には未知の空間でしかないが、乗組員たちは迷うことなくそれらを使いこなしている。
つまり、彼らにとって宇宙船は日常なのだ。
一方で、乗組員にとって未知なのは、エイリアンだけである。
ところが鑑賞者は違う。
宇宙船そのものが未知であり、その中へさらに未知の生命体が侵入してくる。
私たちは「未知の世界の中で、未知の怪物を見る」ことになる。
だから常に足場がない。
リドリー・スコット監督は、この宇宙船をほとんど説明しない。なぜなら、乗組員にとって説明する必要がないからだ。
その結果、私たちは宇宙船に「案内される」のではなく、「放り込まれる」。
この感覚が、本作独特のリアリティを生み出している。
そして恐怖を決定づけるのが、エイリアンという存在だ。
謎の信号を追って降り立った惑星には、不気味な宇宙船が眠っている。その内部は配管なのか、生物の体内なのか判別もつかず、空間そのものが不安を誘う。
さらに、半透明の卵。そこから飛び出して人の顔に張り付く寄生生物。胸を突き破って現れた幼体は脱皮を繰り返し、やがて頭部が異様に長く黒光りした成体へと姿を変えていく。
エイリアンは、一つの怪物ではない。
成長そのものが恐怖なのである。
しかも、生物なのか機械なのかも判別できないような物体だ。
理解できないから怖い。
未知だから怖い。
約半世紀が経った今なお色褪せないのは、この「理解不能」を徹底してデザインしたからだろう。
しかし、『エイリアン』の恐怖は怪物だけでは終わらない。
乗組員の一人・アッシュがアンドロイドと判明した時のヴィジュアルも、輪をかけて不気味だった。
人間だと信じていた仲間が、実は会社の命令だけに従う存在だった。
さらに、宇宙船を管理する人工頭脳「マザー」も、知りたいことを尋ねるたびに「解答不能」と突き放す。
地球へ助けを求めることもできない。
味方だと思っていた仲間も信用できない。
最後の頼みだったコンピューターも答えをくれない。
怪物に襲われながら、信じていたものが一つずつ失われていく恐怖は、もう絶望以外の何物でもない。「希望」とか「勇気」とか「団結」といいた言葉は、この世界では通用しない。そんなものは、理解不能な存在の前では生ぬるい精神論でしかないのだ。
地球が宇宙人に侵略される映画は数多い。
しかし、『エイリアン』はその逆を描いた。
人類が宇宙へ進出し、その先で未知の生命体と遭遇する。
考えてみれば、この方が現実味がある。
人類が未知の世界へ踏み込めば、そこには人類の常識が通用しない生命が存在して当然だ。
だからこの物語は「あり得ない話」ではなく、「あり得るかもしれない話」として迫ってくる。
『スター・ウォーズ』が宇宙への憧れを描いた映画なら、『エイリアン』は、その憧れの先に待つ現実を描いた映画だった。
リアルな日常と、理解不能な未知。
この二つが衝突した瞬間に生まれる恐怖こそが、『エイリアン』という作品が半世紀近く経った今なお、SFホラーの金字塔として語り継がれる理由なのだと思う。