作品データ
作品名:ゴジラ-0.0(Godzilla Minus Zero)
公開年:2026年
監督:山崎 貴
脚本:山崎 貴
出演:
- 神木 隆之介
- 浜辺 美波
- 吉岡 秀隆
- 田中 泯
- 長澤 まさみ
上演時間:135分
製作国:日本
ジャンル:アクション・SF・ドラマ
画像出典:TMDb(The Movie Database)
怪獣映画の醍醐味、そして恐怖!
※ネタバレを含みます。
凄かった😱 怖かった😭
『ゴジラ−0.0』を観ている間、私はずっと肩に力が入っていた。
ゴジラが現れるだけで、心臓が縮み上がる。顔はもう、😱😨😰😖の連続。とにかく怖い!
そして、忘れられないのが、キングギドラが松本城の天守に降り立つ場面。
「どやー!!」
そう叫ばんばかりの堂々たる雄姿!
山崎監督の出身地である松本。監督自身のキングギドラへの思い入れも感じられる。物語の展開とは別に、怪獣映画の観客へのサービスとして、実に楽しく、カッコいい場面だった。
そして、ゴジラとキングギドラの戦い。
これが、想像以上に凄まじかった。
キングギドラの三つの首がゴジラに食らいつき、皮膚を引き裂き、腕まで引きちぎる。ゴジラも負けじとキングギドラの首を切り落とす。
互いに容赦なく相手を傷つける肉弾戦。さらに、強烈な光線の応酬。
いや、これはまさに、ホラーだ。
怪獣同士の戦いなのに、思わず目を背けたくなるほどの恐怖。私はこんなに恐ろしい怪獣バトルを観たことがあっただろうか。
前作『ゴジラ−1.0』では、ゴジラが人間の暮らす街を破壊していく恐怖があった。戦争を乗り越え、ようやく復興しようとしていた街が、再び壊されていく。その絶望感が強く印象に残っている。
本作では、前作ですでに破壊された六本木が、怪獣たちの戦いの舞台となる。
前作では人間の生活が壊されることが怖かった。今回は、怪獣そのものの力と、その戦いの容赦なさが怖い。前作で破壊された場所だからこそ、その光景がいっそう強烈に感じられたのだと思う。
前作と本作、どちらが好きかなんて聞かれても困る。
前作があるから今作がある。今作のために前作がある。
この二つを比べると?なんてのは、愚問なのだ。
ゴジラを利用する人間、ゴジラに利用される人間
本作では、人間たちがゴジラとギドラを戦わせ、その勝者を弱ったところで倒そうとする。
作戦としては合理的で無駄がない。怪獣映画としても自然な展開だ。しかし、ここの登場人物たちは、「その行為は人道的ではない」と考える。そんなもんかなぁとも思うが、それはまあ良い。確かにそこには危うさを感じられなくもない。
人間は、自分たちの力では太刀打ちできない怪獣を、どうにか利用しようとする。けれど、怪獣たちを利用しようとするなら、彼らを制御できることが前提になる。
キングギドラの飛行コースを読む。ゴジラを誘導する。
北アルプスに眠るキングギドラと、太平洋を泳ぐゴジラを対峙させる。
どちらかが息絶えた時、生き残った勝者が消耗しているところを人間が攻撃する。
そううまくいくはずがない。
両者の戦いは想像以上に混戦する。一時的に優勢となったキングギドラに対し、攻撃を仕掛け始めた人間は、全ての攻撃力を出し尽くす。
それでも、キングギドラを仕留めることはできない。もう後がない。
そこでゴジラを目覚めさせ、ゴジラがギドラを倒す。
その時は既に、日本側にゴジラを倒す力が残っていない。そこにアメリカ軍が介入し、ゴジラとゴジラに関係する人々を保護すると告げるのだ。
「米軍なんなんだよ!」
思わずそう言いたくなったのだが、この展開は、単なる作戦の成否として片づけられないものを感じさせる。
本作で印象に残った人物の一人が、村上教授だ。
彼は広島への原爆投下で家族を失い、自分だけが生き残った。そして、ギドラの襲撃でも、また生き残ってしまう。
「また、生き残ってしまった……」
この言葉が重い。
前作の敷島も、戦争で生き残ったことへの苦しみを抱えていた。敷島が自分の中の戦争に決着をつけたのに対し、村上はまだ過去を背負い続けているのだ。
村上はアメリカへの憎しみを抱いている。
彼は想像の中で、ゴジラをアメリカへ誘導し、ニューヨークを放射熱線で破壊する。彼にとってゴジラは、倒すべき敵というだけではない。アメリカへの復讐を果たすために利用したい兵器でもあるのだ。
ここにも、ゴジラを利用しようとする人間の姿がある。
しかし、ゴジラは誰かの復讐の道具になるような存在ではない。人間の思惑など関係なく、圧倒的な力でそこに存在する。
そして、村上が命懸けで考えたことや、野田が必死に止めようとしたことも、最後にはGHQの意向によって覆されてしまう。
その時、その人が命懸けでやったことも、もっと大きな力によって簡単にひっくり返されてしまうという無情。
大きな力の前では、個人の願いや決意さえも簡単に覆されてしまう。その無情さは、シリーズを通して描かれていることの一つなのだと思う。
ゴジラが象徴するもの。そして「三度目はない」
本作のゴジラには、大国アメリカの象徴という側面もあるのではないかと思わされる。
放射熱線を吐くゴジラは、原爆の象徴でもある。
圧倒的な力を持ち、ひとたび現れれば人間にはどうすることもできない。その存在に、日本は怯える。
一方で、アメリカはそのゴジラを守ると決める。
これは、アメリカを単純な悪役として描いているということではないと思う。
戦後の日本が置かれた、アメリカとの力関係を表しているのではないか。
敗戦国である日本には、ゴジラをどうにかする力がない。自分たちで何とかしようとしても、最後にはアメリカの判断に委ねられてしまう。
ゴジラがアメリカを象徴する存在だとすれば、アメリカにとってゴジラは必ずしも敵ではない。しかし、日本にとっては恐怖そのものだ。
同じ存在でも、立場によって見え方が違う。
そして、本作のキャッチコピー。
「三度目はない。ここで、全て終わらせる」
私は、この「三度目」が、アメリカによる三度目の原爆投下を意味しているのではないかと考えた。
広島、長崎。そして、三度目はない。
もう二度と、あのような悲劇を繰り返さない。三度目は絶対に起こさせない。
そう考えると、この言葉は単にゴジラとの戦いを終わらせるという意味だけではなくなる。
もちろん、これが監督の意図だと断定することはできない。でも、ゴジラと原爆、アメリカと日本、そして戦後の力関係を描いた本作だからこそ、私はそう読みたくなった。
もう一つ気になるのが、「ここで、全て終わらせる」という言葉の主語だ。
村上個人の決意なのか。敷島のように戦争の記憶を背負った人々の願いなのか。ゴジラと戦う日本人全体の言葉なのか。それとも、山崎監督自身の宣言なのか。
その答えは現時点ではっきりとは分からないが、映画は「全て終わらせる」と言いながら、終わったようには見えない形で幕を閉じる。
私たち観客が望む筋書きは、ゴジラがギドラを倒す。そして次は、人間がゴジラを倒す。
これで怪獣映画としては二段階のカタルシスがあるはずだ。
ところが監督は、私たちが望むような分かりやすい決着を与えてくれない。
ゴジラが勝ったからといって、人間が救われるわけではない。むしろ、そこから先が問題なのだ。
本作でも、ゴジラを応援するというより、「人間頑張れ!」という気持ちになる。
人間はゴジラを利用することはできても、完全に支配することはできない。自分たちの力だけで決着をつけることもできない。
そして、最後に残されたのは、アメリカ軍の介入と、まだ終わっていない物語だった。
完結しないの!?🤣
前作『ゴジラ−1.0』と本作『ゴジラ−0.0』。二つの作品を観て、改めて思う。
これは、単なる怪獣映画ではない。
ゴジラという圧倒的な存在を通して、戦争の記憶、原爆の恐怖、生き残った人間の苦しみ、そして戦後日本が置かれた立場を描いている。
「三度目はない。ここで、全て終わらせる」
その言葉が誰のものなのか。そして、本当に全てを終わらせることができるのか。
今の私には、まだ分からない。
山崎監督! この続き、どうする!?
楽しみに待ってます!!
※当ブログに掲載している映画関連の画像(ポスター・スチール写真等)は、各作品の紹介および批評を目的とし、著作権法第32条に基づく「引用」の範囲で使用しております。著作権および肖像権は製作会社・配給会社に帰属しています。画像の使用に問題がある場合は、速やかに対応いたしますので、ご連絡ください。