作品データ
作品名:何者
公開年:2016年
監督:三浦大輔
原作:朝井リョウ『 何者 』
出演:
- 佐藤 健
- 有村 架純
- 二階堂 ふみ
- 菅田 将暉
- 岡田 将生
- 山田 孝之
上演時間:97分
製作国:日本
ジャンル:ドラマ・青春
画像出典:TMDb(The Movie Database)
『何者』を観た。
……いや、正直に言うと、ものすごく好きな映画というわけではない。
なのに、観終わってから妙に考えてしまった。
そして気がつけば、かなり熱く語っている。
たぶん、この映画には「好き」とは別のところで、引っかかるものがあったのだと思う。
原作小説を読んだ時に強く感じたのは、「空恐ろしさ」だった。
舞台は、ごく普通の大学生たちの就職活動。
みんなで集まって、就活について話している。
ところが、その裏にはもう一つの世界がある。
SNSだ。
現実では友達として話している人が、SNSではまったく違う言葉を使っている。
自分をよく見せたり、誰かを批評したり、他人には見せない本音を書いたりする。
しかも、その投稿を見ているのも、同じ仲間たち。
同じ部屋にいるのに、みんな別々の世界を生きている。
この感じが、なんとも空恐ろしい。
でも、この物語は、
「SNSの自分=偽物」
「現実の自分=本物」
としていない。
SNSで自分を演じているのも自分。
人前で取り繕っているのも自分。
心の中で人を妬んだり、見下したりしているのも自分。
全部ひっくるめて、自分なのだ。
じゃあ、いったい「本当の自分」って何なんだろう。
ここから、この映画のタイトルでもある「何者」という言葉が効いてくる。
そして、一番ヤバかったのは拓人だった
原作では、主人公・拓人の目線から物語が始まる。
里香はちょっと痛い。
隆良は意識が高すぎて、なんだか寒い。
拓人は、そんな二人を冷静に観察している。
人間をよく見ている。
相手の言動を分析するのがうまい。
ところが物語の途中で、その見え方がひっくり返る。
拓人自身が、SNSの裏アカウントで仲間たちを猛烈に批評していたことが発覚するのだ。
そこは、
「一番ヤバかったの、拓人! お前じゃん!」
となる。
しかし映画では、原作ほど「騙された!」という感じはない。
むしろ最初から、拓人はちょっと嫌な奴に見える。
その代わり映画では、拓人がどうしてそうなってしまったのかが、少し分かりやすく描かれているように感じた。
「自分が何者か」より「あいつは何者か」
拓人は、大学では演劇に情熱を注いでいた。
そこには、少なくとも「自分はこういうものを作りたい」という気持ちがあった。
でも、それを諦めて、就活を始める。
現実世界でもよくある「進路」の問題だろう。
しかし拓人の中では、何かが大きく変わってしまったのではないだろうか。
自分が想像する以上に。
「自分は何になりたいのか」
「何をしたいのか」
「何ができるのか」
そういうものが分からなくなってしまった。
すると、目が他人に向く。
里香はこういう人間。
隆良はこういう人間。
ギンジはこういう人間。
人を観察して、分析して、批評する。
拓人は、それがうまい。
でもそれはもしかすると、自分自身を見ないための、「逃げ」だったのかもしれない。
「自分が何者なのか」を考える代わりに、「あいつは何者なのか」を考える。
なんだか、嫌な話である。
でも、ものすごく身近な話でもある。
SNSを見ながら、「この人ってこういう人だよね」と勝手に分析しているうちに、自分のことは棚に上げてしまう。
他人の人生なら、いくらでも評論できる。
拓人は、まさにそんな「穴」のようなものにハマり、自ら孤独に陥ったように見える。
就活が下手だった、だけではない
拓人には、何故なかなか内定がでないのだろう。
映画では、「面接官に拓人の中身のなさを見抜かれた」と単純に考えることもできる。
でも、本当にそうなのだろうか。
もっと普通に考えれば、面接やグループディスカッションで、自分の良さをうまく伝えられなくなっていたのかもしれない。
光太郎は、
「自分は就活が上手かっただけ」
と言う。
確かに、就活には「自分を売り込む技術」が必要だ。
でも、その技術だけではどうにもならないものもある。
「俺はこうなりたい」
「これをやりたい」
「自分にはこれができる」
という、自分自身を出していく気持ち。
それがあって初めて、「自分を売り込む」ことができるんじゃないだろうか。
拓人は、演劇をやっていた頃には、きっとそれを持っていた。
でも、それを諦めてしまった。
だから、就活のテクニック以前に、「売り込みたい自分」がなくなってしまったのではないかと思う。
特別な悲劇ではないから、怖い
拓人の人生に、ものすごく大きな悲劇が起こったわけではない。
演劇を諦めた。
就活がうまくいかない。
友達に嫉妬する。
SNSで嫌なことを書く。
誰だって、人生のどこかで経験しそうなことばかりだ。
「こんな人、いるいる」と思えるし、自分だってそういう部分を持っているんだ。
他人を分析しているほうが、自分自身を見つめるより楽な時がある。
誰かを批評している間は、自分が何者なのかを考えなくて済む。
そう考えると、『何者』は「就活の映画」というより、自分が何者なのか分からなくなっていく人間の話なのだと思う。
映画版には、小さな救いがある
原作を読んでいたからこそ、映画版で印象に残ったのがラストだった。
拓人の裏アカが晒される場面。
映画は、そこを舞台劇のように見せる。
拓人が舞台の上に残され、幕が下りる。
観客からは拍手喝采。
拓人は恥ずかしさに耐えられず、逃げ出してしまう。
なんとも皮肉な「演劇」だ。
でも、そのあとに端月が言う。
「拓人くんの演劇、好きだったよ」
あくまでもこれは、拓人の記憶の中の瑞月の言葉だが、
拓人の演劇への執着が、そこでつまびらかになるシーンだ。
拓人が本当に失ったものは、演劇だけではなかったとのだと思う。
「なりたかった自分」を、自分自身で諦めてしまった。
そのことを、過去の端月が気づかせてくれた。
ここに小さな救いがある。
「もう一度演劇をやればいい」ということではない。
就活がうまくいくわけでもない。
拓人が突然、立派な人間になるわけでもない。
ただ、
「あの頃の自分を、好きだった人がいた」
と思い出す。
それだけなのだ。
でも、それだけでいいのかもしれない。
『何者』は、結局「自分」の話だった
SNS上の自分。
現実の自分。
人に見せている自分。
心の中にいる自分。
なりたかった自分。
どれか一つが本当の自分なのではなく、その全部を抱えているのが自分なのだろう。
そして、その中で「自分は何者なのか」を探し続ける。
拓人は、一度それを諦めてしまった。
だから他人を見て、他人を分析して、他人を批評することで、自分の空っぽさから目をそらした。
でも最後に、自分がかつて何かになろうとしていたことを思い出す。
『何者』は、就活の話でもある。
SNSの怖さを描いた映画でもある。
でも、それだけでは終わらない。
「あなたは、いったい何者なの?」
そう問いかけてくる映画だった。
そしてその問いは、拓人だけではなく、こっちにも返ってくる。
……うーん。
好きな映画ってわけじゃなかったんだけど、
考えさせられる作品では、ある。
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