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『許されざる者(1992年)』|カッコいいガンマンが、その殺しを背負って生きていたら

  作品データ

作品名:許されざる者( Unforgiven )

公開年:1992年(日本公開:1993年)

監督:クリント・イーストウッド

脚本:デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ     

出演:   

  • クリント・イーストウッド
  • ジーン・ハックマン
  • モーガン・フリーマン

上演時間:130分

製作国:アメリカ

ジャンル:アクション・ドラマ・西部劇

画像出典:TMDb(The Movie Database)

『許されざる者』を久しぶりに観た。

今回は午前十時の映画祭での再見。

この映画、私はかなり好きなのだが、

以前観た時と、今回では、少し見え方が変わった。

以前は、この映画を「人を殺すことの怖さ」を描いた映画だと思っていた。

殺す側と、殺される側。

その両方から「人殺し」というものを見つめている。

「人を殺すということは、殺された人の人生を奪うだけじゃない。

殺した側の人生も、変えてしまう。」

そんなセリフが、物語を全て語っていると思っていた。

もちろん、今でもその感想は間違っていない。

でも今回は、イーストウッドの西部劇をいくつも観てきたからこそ、別の見方が浮かんできた。

もしかすると、この映画は、

「かつてのカッコいいガンマンが、自分の殺しを背負って生きていたら?」

という、とんでもない映画なんじゃないか。

スピンオフ!?

……いや、続編!?

そんなことを考えてしまった。

昔のイーストウッドは、とにかくカッコいい

私は昔のイーストウッドのガンマンが大好きだ。

セルジオ・レオーネの「ドル箱三部作」で、イーストウッドは、ほとんど無敵の男を演じている。

銃を抜く。

撃つ。

悪党が倒れる。

そして、その一連の動作が、とにかくカッコいい。

特に銃声。

レオーネの西部劇では、銃声まで映画の快感になっている。

「キューン!」

あの音が鳴るだけで、テンションが上がる。

人が撃たれて倒れるという、とんでもなく物騒な出来事なのに、映画としてはものすごくカッコいい。

それが西部劇の魅力だった。

そしてイーストウッドは、そのカッコいいガンマンの姿を作った人でもある。

その後の『ダーティハリー』もそうだ。

銃を持った男が、自分のやり方で悪を叩き潰す。

もちろん単純な善人ではない。

でも、圧倒的にカッコいい。

私はそういうイーストウッドが好きだった。

『許されざる者』を観ると、

その「撃つ」という行為の、その後ろ側を見せられているような感覚になる。

マニーは、昔の自分を許していない

ウィリアム・マニーは、かつて人を殺していた。

酒を飲みながら、女を殴り、人を殺した。

かなり酷い男だった。

でも、妻と出会って変わった。

酒も女もやめた。

農夫になり、子どもたちを育てている。

一見すると、過去を捨てて新しい人生を歩んでいる男に見える。

ところが、私は今回観ていて、

マニーは過去の自分を捨てられたわけじゃない。

と思った。

むしろ、過去の自分を恐れている。

あの頃の自分を嫌っている。

妻と出会って変わった自分がいるからこそ、昔の自分がどれほど酷かったのかも分かっている。

だから私は、マニーを「過去の自分を受け入れた男」だとは思わない。

そんなに簡単じゃない。

マニー自身が、自分を許していない。

酒をやめても。

真面目に生きても。

子どもたちを育てても。

過去に人を殺したという事実は消えない。

亡霊みたいに、ずっとついてくる。

もし、あのガンマンが全部覚えていたら?

ここで、昔の西部劇と『許されざる者』をつなげて考えてみる。

もし、あのカッコいいガンマンが、

自分が撃ち殺した人間のことを全部覚えていたら?

もし、撃った瞬間だけではなく、その後の人生でも、

「あの時、俺は人を殺した」

と何度も思い返していたら?

もし、酒も女も捨てて、真面目に生きようとしても、その過去だけは絶対に消えてくれなかったら?

……マニーって、そんな男なんじゃないか。

そう考えると、『許されざる者』は、

「カッコいいガンマンの、その後」

のようにも見えてくる。

昔の西部劇で描かれていたのは、銃を抜く瞬間だった。

『許されざる者』が描いているのは、その銃を抜いた人間が、その後どう生きるのか。

そう思うと、この映画がものすごく面白くなる。

銃声が違う

今回、特に強く感じたのが銃声の違いだ。

レオーネの西部劇では、

「ッキューン!」

と鳴る。

その高音がカッコいい。

ところが『許されざる者』では、

「ドォン!!」

だ。

心臓が跳ね上がるような重低音。

「銃って、こんなに怖い音だったのか」

と思う。

同じ西部劇なのに、こんなにも違う。

しかしこれは、イーストウッドが昔の西部劇を否定しているということではないと思う。

むしろ逆だ。

自分が大好きだった西部劇を知っているからこそ、その同じ世界を別の角度から撮っている。

レオーネがガンマンの「カッコよさ」を見せたのなら、イーストウッドは、そのガンマンが背負っているものを見せた。

「人を撃つって、本当はこういうことなんだぜ」

と。

でも、それでも最後には、

やっぱりイーストウッドは、カッコいい!!🤣

となる。

ここが困る。

いや、本当に困る。

マニーが銃を持った瞬間

ラスト。

ネッドを殺され、売春婦たちから報酬を受け取ったマニーは、銃を手にする。

そしてリトル・ビルのいる酒場へ向かう。

あの時のマニーは、それまでとはまるで違う。

圧倒的に強い。

殺気でギラギラしている。

怖い。

でも、めちゃくちゃカッコいい。

あれだけ「人を殺すことは怖い」と描いてきた映画なのに、ここで私は、

「うわ、来た!」

と思ってしまう。

これはもう、昔のイーストウッドそのものだ。

銃を持った男が、悪党の前に現れる。

そして、撃つ。

ただし、昔とは違う。

私たちはもう、その銃声が「キューン!」ではなく、「ドォン!!」だと知っている。

撃たれた人間がどうなるのかも知っている。

マニー自身が、人を殺すことの重さを知っている。

覚悟が違う。

だからこそ、あのカッコよさが単純なヒーローのカッコよさでは終わらない。

カッコいい。

でも、

怖い。

その二つが同時にある。

それが『許されざる者』なんだと思う。

「強い人」「正しい人」なんて、簡単には決められない

そして、この映画にはもう一つ面白いところがある。

イングリッシュ・ボブとリトル・ビルだ。

イングリッシュ・ボブは、伝説のガンマンとして登場する。

みんなが「強い男」だと思っている。

ところが、実際には……。

思っていたほど大した男じゃなかった。

一方のリトル・ビルは、保安官。

町を守っている。

日曜大工で家なんか建てて。

一見すると「正しい」人間だ。

ところが、とんでもなく残酷だ。

ここで、

「強い」「弱い」

「正しい」「悪い」

という言葉が、どんどん怪しくなってくる。

人間って、そんな一言で決められない、ということか。

そういえば、レオーネには『続・夕陽のガンマン』がある。

『善玉、悪玉、卑劣漢』が原題となっているわけだが、

そんな簡単に分けられない、ということ。

人間って、もっとややこしい。

イングリッシュ・ボブの「強さ」だって、人が作った伝説かもしれない。

リトル・ビルの「正しさ」だって、保安官という立場だけでは測れない。

そしてマニーだって、「善人になった元悪党」と一言で片づけられる男ではない。

過去の自分を許していない。

必要になれば、また人を殺す。

でも、昔と同じ人間でもない。

この映画では、誰も一言では説明できない存在なのだ。

ネッドもキッドもそうだった。

マニーは、最後に救われたのか?

では、最後のマニーは救われたのだろうか?

リトル・ビルを倒した。

ネッドの仇を討った。

売春婦たちを救った。

そして、生きて帰った。

物語として見れば、勝利だ。

でも、マニーの中にある過去が消えたわけではない。

また人を殺した。

しかも、あれだけの人間を。

正義のためだったのかもしれない。

復讐だったのかもしれない。

仲間のためだったのかもしれない。

でも、

人を殺したという事実は残る。

マニーは、昔の自分に戻ったわけではない。

けれど、昔の自分を完全に切り離すこともできない。

だから私は、この映画の最後に「許し」を感じない。

むしろ、

マニー自身が、自分を許さないまま生きていく。

そんな苦さを感じる。

もしかすると、それが「許されざる者」というタイトルにもつながっているのかもしれない。

「セルジオとドンに捧ぐ」

そして、エンドロールの最後。

そこには、

「 セルジオとドンに捧ぐ 」

という言葉が置かれている。

セルジオ・レオーネと、ドン・シーゲルだ。

イーストウッドを語るうえで欠かせない二人の監督。

レオーネは、イーストウッドを西部劇のスターにした。

シーゲルは、『ダーティハリー』で別のキャラクターに仕立てた。

つまり、今のイーストウッドを作った二人でもある。

だから、この献辞がたまらない。

私は最初、この映画を「昔の西部劇への決別」のようにも考えたことがあった。

でも、今回改めて観て、それは違うと強く思った。

これは、過去を否定する映画ではない。

レオーネが作ったガンマン、シーゲルが作ったハリー・キャラハン。

彼らは全部自分だ。

だからこそ、

「今度は、あの男たちが背負っているものを撮ってみよう」

と思った。

そんな映画に見える。

「セルジオとドンに捧ぐ」

これは決別の言葉ではなく、敬意を込めた手紙のような、優しい言葉だった。

昔のイーストウッドも、マニーも好きだ

この作品、昔のイーストウッドのガンマンと、マニーが重なって見える。

昔は、銃を抜いて悪党を倒す男だった。

今回は、その「殺す」という行為を背負って生きている。

でも、私はどちらか一方を選びたいわけじゃない。

圧倒的にカッコよくて強い昔のガンマンが、好きだ。

自分の過去を許さないまま、子供たちと地味に暮らすマニーも、好きだ。

レオーネの「ッキューン!」も、

本作の「ドォン!!」も好きだ。

人を殺すことの怖さを描いているのに、最後のマニーには、

「うわ、カッコいい!」

と思って、やっぱり痺れる。

結局、

どっちもカッコいい👍

この矛盾こそ、映画の面白さなのかもしれない。

『許されざる者』は、西部劇のヒーローを否定した映画ではない。

西部劇のヒーローを、別の角度から見つめ直した映画だった。

そして、

「カッコいいガンマンが、もし自分の殺しを背負って生きていたら?」

と考えてみると、

イーストウッドが、この作品をセルジオとドンに捧げた意味が分かってくるのだ。

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